斎藤勇太容疑者@取手バス内13人刺し事件

 「小説家」というもの言いの内実自体が、すでにほとんど別のモノになってる、って現実をメディアはもちろん、世間一般はまだ正視していないようです。なので、それに「なりたい」と思ういまどきの(ビョーキの)若い衆のココロのあり方など、なおのことわかるわけなし。

   いまどき、文学部や人文学部に何となくやってくるようなタチのコのある部分は、確実にこの斉藤クンと共通する心性を抱えています。AO面接でもオープンキャンパスでも、それこそいくらでも出会う「そういうタイプのコ」のある最大公約数の表現=「小説家になりたい」

  漱石や太宰がいまどきどう読まれているのか、いや、いまどきなお漱石や太宰を律儀に読んでしまっていたり、あるいは、いまどきなお漱石や太宰でしか代表されないような「ブンガク」を、何か自分のプライドを補填するアイテムとして認識してしまう程度のどうしようもない貧しさ、やりきれなさ。通俗そのものの最大公約数の「小説」「ブンガク」のさらに退廃形態にすがって何ものかになろうとするしかない、そのココロの荒廃ぶりにこそ、改めて、愕然とするしかありません。

  「ひとり」で「個人」で「自由」に生きる、という誰にでも可能なはずのない「夢」が「豊かさ」任せにうっかりとそこらのみんなにとりついてしまい、でもその「夢」にカタチは与えようがないから未だに「ブンガク」「小説」系のもの言いに逃げ込んでしまうしかない不幸。

  この御仁、小説もブンガクも「好き」じゃなかったんだと、断言できます。「好き」の輪郭すら自分で確かめられないままだったはず。どんな小説が好きで、ラノベでもケータイ小説でもいいから、どんなおはなしにカンドーした経験があって、といった質問をしても、何ひとつ具体的な事例は出てこない、そんなものだったに違いありません。

  でも、そういう症例を共有している若い世代は、どこにでも、目の前にでも、ほら、いくらでもいますよね。 

 「友人のいない孤独な男だった」。殺人未遂容疑で逮捕された斎藤勇太容疑者(27)と小学校と高校で同級生だった男性(27)は斎藤容疑者のことを振り返る。

 

 茨城県取手市内の県立高校の卒業アルバム。クラスメートたちは手をつないだり、肩を組んだり、同じポーズでレンズに笑顔を向けていた。斎藤容疑者はただ1人笑わず、ほかのクラスメートとも絡んでいなかった。高校の休憩時間には教室で1人座り、夏目漱石太宰治の本を読んだ。小学校の卒業文集に私の宝物を「本」、趣味を「本よみ」と記し、将来の夢を「小説家」と書いていた。

 

 高校で副担任によく「声が小さい」としかられるほど、物静かな青年だった。男性は「容疑者の名前を聞き、すぐに、あいつだと思った。おとなしい男なのになぜ」と絶句した。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101217/crm1012172239059-n1.htm

写真 斎藤勇太容疑者(高校の卒業名簿から)

http://sankei.jp.msn.com/photos/affairs/crime/101217/crm1012172239059-p1.jpg