寺山修司と「大衆文化論」・ノート

「ぼくは日本語が言文一致しない間は、話しことばで書くことはとても難しい仕事だと思って、そのへんからやってみようとしたのです。子供の頃「少年倶楽部」を買って読むのはとてもうれしかったが、高校時代になって少し難解な本を読み出すと「少年倶楽部」を読むようなドキドキした気持がじてしてなくなったんだろうか、「少年倶楽部」の文体でカール・マルクスの主題を書くことは不可能なのだろうかと考え始めた。」

 自分が自分になっていった過程をいまさらながらに振り返ろうとしてみても、ある世代までのような「読書遍歴」的な、活字/文字を介した内面形成の経緯など正直、それほど大したものではなかったという自覚がある。何よりそれ以前に、何かそういうまっとうな筋道立てた「読書」の稽古をしてもらったことがないのだ。そのような型通りの「読書」の場や関係からはいつもあらかじめ身を遠ざけておくのが小さい頃からの習い性だったように思う。

 とは言え、やはり本を読んではきたのは確かだし、それによって何らかの「自分」が形作られていったことも間違いない。その経緯来歴を〈いま・ここ〉の時点で敢えて立ち止まって振り返ってみようとすることは、このところ懸案のひとつになっている、いまどき日本語環境での〈知〉のありようを対象化しながらその内側から有効な文体、いくらかでも確からしいことばやもの言いを模索しようとする時に、避けて通れない手続きになっているらしいことは感じる。その程度にトシを喰ったという嘆息混じりの感慨も含めて。

 寺山修司、のことをそういう脈絡でもう一度、振り返ってみる。殊に、〈リアル〉と表現、話しことばやもの言いと身体、そして現前性や「場」「関係」の関わり方、といったいずれパフォーマティヴで演劇的な、しかしそれだけにとどまらない〈いま・ここ〉と日本語を母語とする環境のせめぎあいに常に直角に切り結んでゆかざるを得ない問いを役に立つように更新してゆく時の、おそらくは重要な足場として。

 たとえば、対談というかインタヴュー記事での、こういうなにげない発言の断片。

「戦後、大衆文化論と呼ばれるものがいくつか出てきて、いろいろ教えられることも多かったが、戦後の流行歌に「港」がいくつあるということを分析する人たちは、やはり「港町シャンソン」をどこかで歌っているんだろうな。だけど、ゴミ箱に腰をかけて、汽笛をききながら何となく憶えようとして、やはり憶えるためには手続きが必要で、何かに書いておかなければならない、そのためには手帳に書くのですが、鉛筆をなめなめ書いてゆくうちに「港」という字が多いことに気がつく、そういう気がつき方と、分類する人たちの統計的な気がつき方との違いがある。」

 戦後の、思想の科学研究会の『夢とおもかげ』あたりの作風/芸風を想定した批判なのは明らかだけれども、それ以上に、昨今だとうっかり「質的分析」と「量的分析」といった図式に初手から押し込めて片づけられてしまうことも多い、〈いま・ここ〉と〈知〉との関わり方のある本質について、スパッと切れ味鋭く合焦してみせてはいないだろうか。

 あるいはまた、こういう挿話。その語り方の整い具合なども含めての「上演」の確かさ。「流行歌のレコードの売り上げには絶対にあがってこない歌手がいるでしょう」という導入から、このような語りがあの訥弁の声と共に活字の版面から聞こえてくるかのように。

「たとえば、松山恵子の「お別れ公衆電話」という歌は、どこの女中さんも必ず好きで好きでしょうがないわけです。ただ、女中さんたちはお金も沢山持っているわけではないし、レコードプレーヤーもあまり持っていないということもあるけど、お手伝いさんに会うとみんな「お別れ公衆電話」がかかりそう時間、たとえば松山恵子が属しているレコード会社が持っている放送時間を楽しみにしていて、たまたまその時に掃除をするとか、買物に行かないように、その時間をあけて待っているわけです。口づてに教えられながら憶えるので、歌詞がちょっと違ったり、節が違っているが、「お別れ公衆電話」は知っている。そういう拡がり方をしている流行歌のもう一つの共和国があるわけです。これは「今週のヒットパレード」でベストテンにもあがってこない流行歌です。」

*1

 ああ、いまどきの情報環境は本当に心底ありがたい。これってどんな歌だろう、と検索すればかなりの確率で音源も出てくる。そして歌詞も、また。

www.youtube.com

http://j-lyric.net/artist/a002458/l012750.html

「ところが、知識人が集って歌謡曲を論じると、資料として分類されて「やっぱりおもしろいのは、戦後では「ジンジロゲ」でしょうね」(笑)となる。」


森山加代子 じんじろげ

http://megu.workie2.com/archives/2011/05/post-515.php

*2

 これらの寺山の発言は60年代後半のインタヴュー、それも聞き手が鶴見俊輔でもともと『思想の科学』に載ったものからだけれども、大衆文化論という〈いま・ここ〉に対するひとつの枠組みが60年代の前半から半ばあたりにかけての時期に、それまでのある意味萌芽的な素朴な視点からもうひとつ別の位相から更新がかけられ始めていた、そのひとつの証拠というか証言と言っておいていいかも知れない。

  

king-biscuit.hatenablog.com

*1:「女中」とうた≒流行歌、の結びつき方ということならば、それこそあの「寺内貫太郎一家」のミヨちゃん(浅田美代子だ)が屋根の物干し台で周平(西城秀樹)のギター伴奏で歌う、あのシークェンスなどにもおそらく同時代的なあたりまえとして揺曳していたのだろう、と、ふと。

*2:ジンジロゲーヤジンジロゲ、というこの意味不明なサビの歌詞は、極私的には園山俊二の『がんばれゴンベ』で主人公のゴンベ(サルだが)が機嫌の良い時に鼻歌で歌っているのを小さい頃に見知って、これってなんだろう、と記憶に刷りこまれていた。マンガを介したこういう断片の焼き付き方は案外多くて、「殴り込み、清水港」なんてフレーズもヒゲオヤジのセリフで憶えていた。