「自炊」とデジタイズの功罪、その他・メモ

 紙の本を「自炊」してデジタイズしたけど、結局ロクに読まなくなった、という体験談が複数、TwitterのTLに流れてきていた。「便利」だと思い、紙の本をバラしてわざわざデジタイズするのだけれども、そうした結果かえってそれらを読むことが少なくなった、という話。

 確かに、モニタ上にアイコンなり何なりという形でぎっしり並んだ「本」ってのは、「読む」という欲望を喚起しないだろうと思う。いや、別に本に限らず「レコード/CD」でも「ビデオ/DVD」でも何でも同じような気も。つまり、活字/文字であれ、音楽であれ、はたまた映画などの映像であれ、いざデジタイズされて「情報」化したらそこから先、何かもう別のものになっちまうように思う。

 もちろん、そうすることは「検索」とか、そういう作業については圧倒的に「便利」になるだろうし、それは確かに「合理的」なんだろうけれども、でも、やっぱりそれは「本」を「読む」ということとはまた別の営みのような気がする。昨今取り沙汰されるいわゆる人文系がどうの「教養」がこうの、ってハナシも、どこかそのへんの感覚と紐付けられているような感じがする。善し悪しは別にして。で、それは今後変わってゆかざるを得ないものかも知れんということも含めて。難しいリクツで言えば、フェティッシュとか執着とか、いずれ「収集」するという行為自体の人文学的意味とか何とか、そのへんに繋がってゆくお題なんだとはおも。ただまあ、そっちはそれ系道具立てを具備した御仁なり界隈なりにお任せしておく。

 ラックにぎっしり詰まったサーバとか、そういう通信機械の集積羅列の光景というのに、書棚にぎっしりの本の集積羅列に等しい何ものか、を感じる感性というのも、すでにもう出現し始めとるんだろうか。

 以下、TLでのやりとりの一部。これらも含めて、本当にいろいろと考えさせられる。

 写真でもそうですね。紙の写真だった頃はアルバムを引っ張り出して見返すことが結構ありました。今は撮る枚数が激増した一方で、そのデジタルデータを見返す頻度は格段に減ったと思います。

 本にせよアルバムにせよ「本棚を眺めて衝動的に手に取り、パラパラ眺めているうちに没入する」という感覚を、デジタルデータのインデックスでは喚起できていない感じがします。“「本棚を眺めて衝動的に手に取り、パラパラ眺めているうちに没入する」" YouTubeの右カラムの関連動画一覧はこの感覚を少し取り込めてる気がします。

 自分は逆で読むようになった方ですが、そう言っている人達って紙の状態の時 、その本をどの程度の頻度で読んでたんだろうか。

 現状、デジタルの書棚が無いのがダメですかね。
 通常本棚なら、姿見より大きな面積で背表紙を羅列してるわけですから、80インチくらいの縦型タッチパネル書棚が無いと、認識という意味で紙の本の代替にはならないんだと考えたりします。

 紙のまま積んでて物理的に取り出すのが困難(持ち歩くのも困難)って状態でも読まないわけで。
 A4見開きくらいの充分な大きさがあり軽く手に取りやすく自然な発光のデバイスが出てくれば、だいぶ読みやすさが上がると思います。