ポリコレにポリコレ――「処理」の無間地獄

 町田市の某高校で教師が生徒を殴る動画がweb上に投稿され、例によって炎上していた件。
twitter.com
 あっという間に当事者や撮影者が特定され、これまた晒されていたので格好の炎上事案、あれこれTwitterその他SNSでも取り沙汰されていたけれども、そんな中、どうもひっかかったのは以下のtweet。どうやら現役の教師らしい御仁のtweetなのだが。

 教師に暴言吐く生徒は高校に通う意味がなく退学にすべき!と息巻いてる方々が有名人の尻馬に乗って増大してますが、高校は警察じゃないんです。入学を許可した以上、未熟な彼らの言動を根気よく矯正して社会に送り出すのが我々の全体の奉仕者としての使命なんです。私も稀に「うるせえ」「殺すぞ」と言われたことはありますし、そういう中には退学して行った生徒もいました。しかし逆に「見捨てなかった」から信用できると言われもしています。暴言への懲戒は粛々と行い、指導に乗ってこない生徒には自宅待機で進路の再考を促す。形だけでも反省の弁を述べれば、職務として世話をする。そうこうするうちに生徒は「まとも」に成長していきます。暴言を吐く生徒が悪いのではなく(悪くないとは言ってない)、生徒に暴言を吐かせる組織的または人物的な環境に欠陥があるのです。

 うっかり読み流すと「うんうん、まあ、正論でね?」くらいでそれ以上立ち止まらないのかも知れない、普通の人は。

 てか、いい先生、好ましい教師として認識されるのが世間一般その他おおぜい感覚、てなものだろう。だって、どんなに恫喝され罵詈雑言浴びせられて理不尽な目にあっても「見捨てない」「未熟な彼らの言動を根気よく矯正して社会に送り出す」のが「全体の奉仕者としての使命」だから「職務として世話をする」 と言明、教師という職業に対する意識の高さ、使命感の明確さなどはもう、教職課程の何かの見本、教科書に載せたいくらいの模範事例なんだもの。

 ちなみにこの炎上事案、「暴力による指導」として教師を吊し上げようと目論だ生徒側がわざと挑発したらしく、またそれをわざわざ動画に撮影してweb上に公開するまでもある程度計算してのことだった気配も当初から察知され、SNSその他web上の「世論」が概ね教師側に同情的な感想や意見に傾いていったのも興味深かったのだが、それはそれとして、こういうあらかじめ仕掛けられたトラップとしての「正しさ」、つまり「ポリコレ」を当て込んでそれを制裁の武器として使い回す戦術がすでに現実のものとして時に大マジメに、時にいたずら半分に実践されるようになっている昨今の現状でなお、先のような「好ましい教師」としての「正しさ」だけをこれまた「ポリコレ」的に、かつ刷り込まれた定型の条件反射的に繰り出してしまうことは、そう表明してしまうことでこと足れりとする自意識と共に、いかにそれが当人的には本気で誠実なものであれ、いやだからこそなおのこと、事態をよりいっそう出口なしの隘路に誘導してゆくことでしかないような気がする。

 だって、ほら、炎上した後にこれまた晒されることになった、動画を撮影された側の言い訳釈明のgdgdが、こんな感じなんだもの。


 いまどき10代若い衆、首都圏エリジウムの高校生あんちゃんの口先上等ぶり、とりあえず「謝罪」の形はつけてこれ以上まずいことにならないようにする、そういう知恵だけは瞬間的にまわるようになっているけれども、本質的に悪いと思っていないしそんな「自分」すらそもそもあやふやに、それこそボーッと生きてるから、じきにすぐまたいらぬ言い訳、それもなにげにもってまわった恫喝めいたもの言いを垂れ流して火に油を注ぐという、こういうココロの習い性とそれに伴うことばやもの言いの実にありがちな小手先「処理」ぶり。これはこれでいまどきの「ポリコレ」金縛りの現状を「無難に」生き延びるための彼ら彼女ら若い衆世代の防衛策、ある意味環境への適応形態のひとつなのかも知れないが、それにしてもこういう「処理」をOSとして実装してしまった若い衆世代を相手にして、先の教員模範回答のような「ポリコレ」一択で対峙していると、小手先「処理」で常にかわされるばかりで、ああ、だったらそういう「処理」をできるだけうまく表ヅラだけでやってのけられるのがいちばん「賢い」世渡りなんだな、という理解が「正解」として醸成、強化されてゆくばかりなわけで。

 ポリコレにポリコレで対峙する――どっちにしてもそのことばやもの言いと、そこに嘘でも紐付けられている主体の関係を立ち止まって再確認することなど全くせず/できず、ただそういう「速度」で流されるようになっている「処理」のプロトコルだけがさらに加速化、合理化、効率化されて日々のルーティンを安定させてゆくというからくり。

 「疎外」って、こういう場合も使っていいんじゃなかったっけか。