「よく調べてある」ことの現在・メモ

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 これ、とても大事な感覚であり違和感。単にその書き手の資質やスタイルというだけでなく、いろいろ根の深い問題を垣間見せてくれる糸口となる表明だと思う。

 個人的な違和感不信感でしかないっちゃないんだが、ただ、前々から言うとる「情報」化「コンテンツ」化や、それらを前提にしたいまどきのしらべもの (「調査」「研究」の類でも別にいいけど) に特徴的になっている「スキャン」的、2次元的平面的検索の視線など、近年の情報環境の変貌とそこに宿る〈知〉のありようの変質などと必ずどこかで関わってきているのだろうし、また、ある種の「ロンパー」的マインド *2、マウンティング前提での勝ち負けでしかものごと考えられないゲーム感覚、みたいなものが薄く広く自明に実装されているらしい事態などと共に。

「内容は、よく調べてあると思うところもありますが、自説に合わない事例を無視して論を進めているところが散見されるので大変モヤモヤします。」

 「よく調べてある」ということが昨今、その調べた事実や細部、個別具体のありようなどに対する「自分」との関係を、どこか「情報」化「コンテンツ」化した水準においてしか構築していないことと併せ技にしか成り立たなくなっているかも知れない、という懸念。あらかじめ「情報」化「コンテンツ」化されてあるからこそ、「よく調べてある」も容易に効率的に、一見きれいに現出されるようになっている、という状況。「よく調べてある」になるにはもちろん能力が必要なのだが、その能力は少し前までの情報環境において求められ、生身に宿っていたものと、昨今一律に「情報」化されたデジタイズ環境でのそれと、地続きであると共に、しかし〈知〉のありようとしては本質的に別のものという部分ももしかしたらはらんでいるのかも知れない、ということも含めて。

 「自説に合わない事例を無視して論を進めている」と感じたのは、その「自説」に向かってきれいに整序されているのとは別の〈それ以外〉の「情報」を手もとに持っていて、それらの〈それ以外〉をあらかじめ除外したところでこの「よく調べている」が成りたっていることが見えた(と感じた)からだろう。もちろんいまどきの情報環境のこと、それらもまた「コンテンツ」化された「情報」だったりするわけで、それらが共に一律にフラットに平面的に「情報」として一望できるようになっている(と感じる)がゆえに、それらを同じ水準で「資料」として「パーツ」としてどれだけきれいに整理して見せることができるか、の結果が眼前の「自説」として提示されている。手もとにある使われていない「資料」もまた、その提示されている「自説」を組み立てている「資料」と同じ水準、「コンテンツ」「情報」として突き合わせて見えやすくなっているからこそ、こういう違和感も抱きやすくもなっているはず、なのだが、しかし、昨今眺めている限り、このような違和感や不信感の類をとりあえずそのまま表明することは案外少なく、むしろ「できない」ような印象すらある。逆にそのような留保をはらんだ表明などすっ飛ばして、それら「自説」とは別の「自説」を手もとの〈それ以外〉の「資料」含めて駆使してとっとと構築、さっさと体裁整えて勇躍反撃に向かう、という「ロンパー」モードの即時始動がプロトコルになっているように思う。もちろん、その結果はそれらの過程で生成された「自説」という、ある種ヴァーチャルな「正義」のぶつけあいによる不毛なものにしかならないのも含めて、言うまでもなく。

 だから、それらいまどきモードの対話なり議論なりのプロトコルに従った結果がロクなものにならない、という経験的な認識の上に「モヤモヤする」がちゃんと表明できる、そのことの貴重。手もとにあるそれら〈それ以外〉の「資料」についてはどう考えたらいいのか、も含めて当面「モヤモヤする」というあたりで立ち止まるしかないこと、も含めての。

 すでにしてほぼ自明の前提になっているのは、同じ水準で素材を「情報」として共有する状態で、それらを取捨選択としてどれだけきれいに整った「自説」を生成してゆけるか、という「競争」のイメージらしい。フラットに共有された「情報」の広大な広がりとなめらかな水準を約束されたフィールドとして、その上できれいに整った「自説」の開陳合戦をしてマウンティング前提の勝ち負けを決してゆくのがガクモンであり、〈知〉の存在証明になっているのだとしたら、それはまたずいぶんと窮屈で不自由なことではあるなあ、としか思えない、絶賛老害化石脳としては。

 しらべものの結果、自分の手もとに資料として立ち現れたものは、しかし自分以外の誰かにとっても同じように資料になるわけではない、という感覚はおそらくここにはない。「コンテンツ」化された「情報」は誰にとっても等しく意味を持ち、平等にアクセスすることが可能なものである、というどうやら昨今、自明になりつつあるらしい前提。「科学」「論理」「データ」「客観的」といったもの言いの組み合わせで何となく理解されている〈知〉に対するある種通俗的な認識としても。そしてこれは「コックピット的一望監視感」の全面化とそのような環境での「個」という意識のありようなどとも当然、関わっているはずだ。*3

 自分との関係において初めてその資料は意味を持つようになる、という感覚の後退。これはおそらく、紙やその他媒体を介して、さらにはそこから「デジタイズ」化された「情報」として、現在の情報環境における極限にまで客体化された「データ」としてしか資料を考えられなくなったことにもどこかで関わっている。たとえば、取材や聞き書きなどで得られた資料は単にそういう「データ」ではない、ということ。他でもない自分がその時その場所で取材し、話を聞き、その関係と場において解釈し理解した、そのまるごとの感覚が否応なくあって初めてそれら取材や聞き書きの結果としての「データ」も存在する、という感覚の留保ができなくなっているらしい。そして、すでにバンザイクリフの如き状況を呈しつつあるらしい本邦日本語環境における人文系の「教養」としての守るべき一線というのは、このような留保としてしか存在しないはず、なのだが……

*1:ここで挙げられている本については未見だし、この評価が評価として妥当かどうかもひとまず不問。ここで着目したのはそういうことでなく。為念。

*2:「論破」することありき、の議論厨、web環境によく湧きがちな。

*3:「ベッドなり椅子なりに貼りついたまま動かないですむようになった「個」のまわり、その手の届く範囲にさまざまな情報機器の端末を並べ、「ボタンひとつで」世界を操作する、という幻想を可能にする空間。SF映画の宇宙船のコクピットから証券会社のディーリングルームまでを貫くこの「操作」「運転」イメージを軸にした空間は、社会的には近代の交通機関、とりわけ最も身近なところではクルマの経験を培養基にして成長したものかも知れない。」d.hatena.ne.jp