「映像」を介した「歴史」・メモ

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 写真的な意味での「映像」が残ってしまうようになって以降の「歴史」は、それまでとは良くも悪くも意味が異なってきているようです。静止画はもとより、昨今のように動画までもが平然と、かつ意識しないまでも「記録」され「保存」されてしまい得るような情報環境になってくるとなおのこと。その過程で「消されてゆく」映像が膨大になってきていることなども含めて。

 

 写真撮影機としてのカメラが普及していった過程で、いわゆる「家族写真」が大量に蓄積されるようになってゆき、自分自身の小さい頃の「映像」が写真として残されている人たちがあたりまえになってゆきました。「家族写真」を歴史/社会的な記録資料としてどう活用するか、といった問いはさすがに本邦日本語環境における学術研究界隈でも今世紀に入るあたりからさまざまに能書きが展開されているようですが、近代このかた戦後の過程をくぐってなお旧態依然に存在してきていた既存の学問領域の敷居を超えたところで新たな視野や見通しを獲得しようという根本的な希望を確かに身の裡に宿そうとしない/できないまま、「写真」を語ること自体があらかじめ目的化してしまった文体or話法に自閉してゆく作法が例によって自明になってきている印象は否めない。既存の枠組みがなしくずしに煮崩れてしまった本邦日本語環境での人文社会系のガクモンのここ20年あまりを斟酌するにしても、「カコイイorオサレな能書きを並べて承認欲求充足するぜ」モード自体を相対化していない分、本当に届くべきところに届かないもの言いの再生産は続いてゆくものらしい。*2

 

 たとえば、あの「アルバム」というブツがどの家にも概ね何冊か残されるようになっていった過程。時に布張りだったり刺繍まで施されたり、それまでの日記帳などと同じような「私≒プライベート」の梱包物として。日記が主に文字を介して綴られるものだったのに対して、アルバムに貼り込まれた写真は言うまでもなく映像なわけで、文字は「読む」を介して解読されない限りそこに明確な意味は文脈と共に立ち上がらないけれども、映像はただそこにあるだけで、一瞥されるだけでも何らかの意味が瞬時に立ち上がってしまう違いがある。「私≒プライベート」の梱包物としての意味あいも「アルバム」の方は日記帳に比べるとずっと「開かれた」ものであると同時に、その分、秘匿性や閉塞性といった属性は薄くなるような気はします。日記帳を読まれて解読されることよりも、アルバムをのぞかれてそこにある「家族写真」を見られることの方が、小さい頃の自分の顔やあらぬ場所にいることがバレたりすることなどを別にしたら、個人のココロの許容度はずっと高いような気もしますし。 *1 

 

 とは言え、その写真に撮影者という意味での「自分」が記録されることはまずなかったわけで、記念写真を「みんな」で撮るためのセルフタイマーが外部から装着されるようにならないことには、今で言う「自撮り」な映像は記録されることもなかったということになります。

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これと同じものが家にあった。オヤジのニッカⅢと共に。

 ならばいったいに、記録された映像に「自分」が映り込んでいることとそうでないこととの間に、どのような違いがあるのでしょうか。それを他でもないその自分が見ることを想定するようになることと共に。たとえ実際に見なかったとしても、見るようになる状況が想定される環境にそれらの写真が「ある」ということが。*2

 

*1:これもまた「歴史認識」や「もうひとつの歴史修正」をめぐる一連のお題に関わってくるハナシに。

*2:いかにも「論文」「業績」のカタチにきれいに収まるように整形されたそれらの仕上がりは、しかし〈いま・ここ〉に対する射程距離その他含めての有効性などをどう想定しているのか……いや、いまさらそのへんはもう別にどうでもいいっちゃいいんですけど、ね……(´-ω-`)

写真経験の社会史―写真史料研究の出発

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歴史と向きあう社会学: 資料・表象・経験

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*1:たとえば、フエルアルバムで知られるナカバヤシなども、沿革を見れば製本屋だったりする。その後戦後にビジネス手帳を作るようになり、コイン選別器なども手がけるなど高度成長期にもたらされた情報環境の変貌を日常≒家庭生活の水準で受け止めてゆく界面にビジネスチャンスを見つけていったことがわかる。その後、各種事業を吸収・統合してゆきある種のホールディングス化していったらしいことも含めて。https://www.nakabayashi.co.jp/company/history/     

*2:鏡の普及過程、殊にガラス素材で明確に映像がそこにあるようになってからのそれは、「自分」をうっかり意識してしまう経験を日常の中に埋め込んでゆく過程でもありました。