定説を「覆す」キモチよさ、のこと

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 人文社会系の「真実」というのはその時代、その社会における情報環境との相関で輪郭定まってくるところが善し悪し別にしてあるんだとしたら、「定説」(とされてきたもの)がみるみるうちに「覆されてゆく」(ように見える)のもある意味時期的なもので「必然」に見えたりもするわけで。

 で、それは、ことの是非やどれくらい「必然」なのか、といった論理的な事情とは別に、単にその「覆されてゆく」こと自体の快楽に足とられてのこと、って真実も割とあるあるだったりする。

 違う言い方。「速度」が「効率性」「合理性」「生産性」の別のあらわれだったり、もっと言えばそもそも後者が「速度」の下僕だったりする。

 昨今どんどん自明化してきとるようないまどきっぽい(と感じる)情報環境ってのも、そういう「速度」を裏打ちにして版図を拡張してきたこと、うっかり忘れちまうほど何かキモチよくなっちまっとったりしないだろうか。

 このへん、本邦日本語環境の〈知〉の言語空間における「進歩」が果たしてどのようなイメージで昨今とらえられとるのか、といったあたりとも関わってくるような。社会なり現実なりが「進歩」している、そのように言っていいらしい程度に「良い方向」へ変わってゆきつつある、という認識なり漠然とした感覚なりがどのように「あたりまえ」になっているのかいないのか。そしてそれはそれら〈知〉の言語空間における学術研究が同じように「良い方向」へ向かいつつある、という認識と無関係でもないはずで。

 ならば「退歩」なのか、「悪い方向」へ向かっているのか、という対抗的なもの言いもまた別の束縛の裡にあるわけで、「良い/悪い」「進む/退く」といった図式自体をひとまず棚に上げてみたところで、ただそのように「変わってゆきつつある」という認識、まさに「変遷」の過程のとりとめない現在をじっと眺めようとすることから試してみないことには、このあたりの自明化しとる現実認識のありようはその姿をまともにあらわしてくれないものらしい。

 「定説」という自明、はそれを「覆す」「否定する」こと自体がある種の快楽、素朴な興奮やキモチよさを容易に手軽にうっかりと喚起してくれるものであるらしいがゆえに、その手続き手癖習い性には常に敏感になっておきたいと思う。

*1:このへん、例の「つくられた●●」話法や「~の近代」文法の本邦人文社会系ルーティンの澱み具合などともナチュラルに関わってくる、はず。