「萌え絵」問題・メモ

 いわゆるひとつの「萌え絵」問題、個人的にはその萌え絵自体に反応する感性稀薄な老害化石脳なんだが、かつて「漫画」(と総称ひとくくりにされていた「絵柄」一般)が子どもたちの身の回り品にみるみるうちに増殖していった過程、と基本的に地続きの現象なんだとはおも。例の花森安治激怒の一件などの当時の世間の反応含めて。*1

 「なにもかも漫画だらけ」ならぬ「どこもかしこも萌え絵だらけ」なんだろう、と。で、それはそういう絵を好む子どもなり人がたなりに向けての商業的文脈での意匠なわけだが、かつてはそれを「子ども向け」ということでスルーして/できていた世間の閾値が半世紀でだいぶ変わってきたんだろうな、と。

 むろん花森は半世紀前も「子どもが喜ぶからといって何でもありでいいんかコラ( ಠωಠ)」(大意)と文句つけているんだが、昨今の萌え絵氾濫の世相についてはさて、当時の花森の視点や立ち位置からすればどのように見えるのかな、という個人的な思考実験などやってみたりしている。喜ぶ対象が「子ども」ではすでになくなっとるということがまず最前提として。あと、同じ絵でもうっかり喚起されるキモチやココロの領分がかつてとだいぶ違う様相を呈しとるらしいことも。

 表現規制に対するカウンターの人がたも、自分たちの理解できない表現に対して規制しようというのは異質なものに対する理解力や寛容性が足りない、的なもの言い繰り出してくるのが割と基本線になってるみたいだけれども、そういう「異文化理解」と「価値相対主義」の併せ技のリベラル話法が未だにそんなに効きがあるのかどうかはひとまず措いておくにしても、かつての花森の違和感のありかに対してという点に限っても、それはちょっとズレてるんじゃないかと思う。

 子どもは社会がおとなが見守って育てるべき存在、という前提があって、それと共に「理解すべき」対象でもあるという布陣での理屈展開ならまだしも、表現だけを俎板に上げ対象にしておいてそれに対する「理解」の必要を正義に掲げるのは、その表現を「作った」事情やその立場の思惑その他は考慮されていないわけで、何よりそういう表現は子どもなら子どもが自発的に作ったものでも維持してきたものでもない。萌え絵の場合は子どもに限らずある世代ある嗜好をあたりまえに共有している側が対象と言えば言えるし、彼ら自身が作って維持してきたある種の文化という言い方はまだ可能になるかも知れないが、それでもなお、そういう表現だけが対象化される前提が自明に設定されていることには変わりない。

*1: もうずいぶん前からこだわっていて、ことある毎に引用&言及している花森安治の文章。たとえばこんな具合。「大人でも、持ち物や、着るものや、便う道具によって、その人間が変わってくる。まして、これから育ってゆこうというこどもには、それが非常にひびいてくる。(…)おばけのQ太郎のついたノートに鉄人28号のついた鉛筆で書き、スーパージェッターのついた消しゴムで、おそ松くんのスケッチブックに鉄腕アトムのクレヨンで書く、そんな日々をつみかさねてどんな感覚がみがかれ、どんな勉強ができるというのだろう。」 花森安治「なにもかも漫画だらけ」(1966年) king-biscuit.hatenablog.com