「ニセ学生」の手ざわり・雑感

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 そうなんだよなあ、「ニセ学生」なんてのが可能だったってこと自体、実際は首都圏や京都など限定の環境だったってことなんだわなあ。当時はそういう事情あまり考慮の入ってなかったというか、入れる必要もないほど「学生」の意味あいがそういう環境前提にもうなっちまっとったってことかも知れんわなあ。

 たとえば、いま、ご当地市内限定でそういう「ニセ学生」やってみろ、と言ったところでほぼ無反応なのは当然で、そもそもそんな時間がまず余ってない、移動にカネかかる(市内ですら)、そうまでするインセンティヴがない(当然っちゃ当然だけど)などで通じなくなって久しいわけで。 移動にカネかかる、ってのが割と切実ってのはいまどきの若い衆財布事情なのはもっと認識されていいと思う。首都圏や京阪神連れてくと電車や地下鉄が安いので素朴にびっくりしているくらい。

 同時に、これはさらに焦点絞ったところでの「京都」で「学生」やっとった人がたの格別感問題、良くも悪くも。前から言ってる「学術研究」環境の東西問題、などとも絡んでくる意味で。もう少し視野を広げれば、そのような「学術研究」環境の「地域」「地方」性とそれが往々にしてなかったことにされてきて、そのなかったことの上に「学術研究」世間でのもの言いや言説の「正しさ」も装われてきたらしいことなども。

 「ニセ学生」やろうず、と煽ってアジって何かを組織しようとしていた、実際それが現実に可能だと思えるくらいの環境ではあったということで、それこそそこらの書店の店頭の新刊本でそれ系人文書とかにチラシ (フライヤー、てか?) 勝手にはさみ込んで情報提供者オルグ (死語) していって、なんてのももう「歴史」の彼方になりつつある「古老談」のような気もする。実際、浅羽尊師とその周辺は最初はそうやって協力者集めてまわっとったはずだし。

 で、そういう手口は、それこそ初期の「ぴあ」なんかも基本そういう「手作り」前提、手間とヒマをかけて集める情報を元にこさえていったわけで。「情報誌」のはじまり、ってそういう互いに情報持ち寄って「手作り」で集約して、的なところが始まったのがほとんどじゃないですかね。それこそ本来の「同人誌」の立ち上がりからしたところで概ねそんなもんだったわけですし。携帯もネットもなく、せいぜい公衆電話くらいでそういう「手作り」の媒体がこさえてゆくことが可能だったくらいの「関係」というのは、それらを立ち上げて維持してゆくためにはどういう知恵やつきあい方が必要だったのか、とかそういう微細なレベルの「伝承」が「サークル」なり「運動」なりを支えていた情報環境だったわけで。

 「雑誌」というメディアの、完成されたアウトプットとしての雑誌というブツだけでなく、それら雑誌というブツをつくりだしてゆくために必要とされていた「関係」や「場」のつくってゆかれ方、みたいなところもひっくるめて、「メディア」と「情報環境」の書き割りをできるだけ描こうとしてゆく上での、複合的で立体的な「歴史」の手ざわりの可能性。

 ただ、こういう具合に何とか手もと足もとの問いと地続きになれるようにことばを整えていったところで、現実にはそんな大層なもんでなくてもただフツーにあたりまえに何となく受け継がれてゆくもの、程度だったとは思うんですがねえ……近頃また取り沙汰されていたような京大の立て看の件なんかでも、なんかそのへんの背景がもう欠落しちまっとるんかなあ、とかいろいろ思うところはあります。

*1:畏友浅羽通明のかつての仕事「ニセ学生マニュアル」のシリーズを読み直しながら、のつれづれなる雑感。