「怒り」の増幅アンプ・メモ

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 ソーシャルメディアは、感情を増幅させるアンプのような側面がある。シェアとは「この気持ちを聞いてほしい」。で、怒りは最も伝播しやすい感情。または、最も過大評価されやすい感情。傍目から見て、信じられないほど小さな話で、信じられないほど強い怒りを持つ人が可視化されまくってる。怒りの過大評価は、対象自身を見誤らせる。針小棒大に物事を捉えるクセがつくと、本当に怒るべき局面でフリーズする。本当に怒るべきか判断がつかない。真に恐れるべきは、こうした感情の不能ではないかと思う。

 SNS以前、いや、そこまで大きくくくらずとも、少なくともmixiの頃まではそれでもまだ、このような「怒り」以下、個々の個体に宿っている感情の増幅アンプ的な側面はここまで顕在化してなかったように思う。facebookTwitterの違い、これも本邦文脈での使われ方の違いやそもそもそれぞれの世間の住人の違い (実体としての違いだけでなく、むしろそこで表出される社会的人格やキャラクターの違いという意味あいで) なども含めて、オープンにアクセスすることのできるようなSNSの使われ方が一般化していったことで、本邦社会におけるこれまでの「社会性」のありようがその習い性なども含めて図らずもうっかり露わになってしまってきているようなところもあるかも知れない。

 2ちゃんねる以来の本邦のweb文化における掲示板のありようが、SNSが主流になってこのかた、特にTwitterにその掲示板以来の「社会性」を良くも悪くも継承してきているところがあるらしいのは、中の住人たちはもとより、Facebookinstagram などのサービスとの比較でそれぞれが異なる世間、違う「社会性」の現われになっていることに対する認識の一般化に伴い、それなりに理解が共有されるようになってきている。

 生身の個体に宿る感情≒「キモチ」というやつが、実際の日常生活のさまざな局面における刺戟と反射といったような「関係」で動いてゆくのとは切断されたところで、SNSの環境との対話対面によって実際の日常生活ではまず表出されることのないような「キモチ」のありようが鋭角的に示されている印象は確かにある。それによって日常の中の生身の個体としての「自分」の「キモチ」の表出回路が良くも悪くも二次的で副次的なものになってゆき、結果的に生身を介した社会生活における「キモチ」自体がうまく存在を自覚できないような事態もまた、そろそろ起こり始めているような気もする。
 

*1:webと現実、虚構とリアル、というありがちですでに陳腐でもある「図式」は、しかしまた未だにある一定の有効性を担保できるツールにもなり得る、という話にもつながってくるような。