「民芸」・アンノン族・ファンシー絵みやげ


 「民芸」ってもの言い、当初の柳宗悦界隈からあさっての方向にズレていって、高度成長期あたりである種のファンシー枠の変りダネみたいな位置づけになってった経緯について。

 劇団「民芸」なんて、戦後ではすでにそっちの意味あいでしか当初はとれんかったし、 *1 その後に出てきた、たとえば「民芸」調の居酒屋や蕎麦屋といったしつらえの内装インテリアなども、民俗学系の「ふるさと」趣味を取り入れて囲炉裏だの何だのをアイテムとして適当にあしらったようなものになっていたし。このへんはまた、高度経済成長期の半ばくらいから世間の認知にさらされていった民俗学がうっかり醸成していった「民俗的なるもの」イメージが、それこそ世相風俗の水準にさまざまに乱反射していったこととも複合して考えにゃならんことなのだろうが。

 たとえば、今村昌平などが、出てきた当初は素朴な社会派的世界観価値観で作品こさえていたのが、それが「評価」されて、なおかつ高度成長期の「豊かさ」が制作環境変えていって資金その他がそれまでよりも潤沢に流れるようになるにつれて、当時の活字市場の人文書系読みものの一環として注目され売れるようになっていた「民俗学的なるもの」の影響を受けて、おそらくは持ち前の「マジメ」ごかしに「勉強」しようとした結果、『にっぽん昆虫記』などを経由して『神々の深き欲望』みたいなうっかり力み返った鈍重な作品を撮ってしまうようになり、またそれらに呼応して「傑作」「芸術的」と「評価」する言説をみるみる組織してゆくような言語空間が情報環境として成り立っていたこととの相乗効果で「名声」を獲得、「巨匠」の高みに祀り上げられるようになっていったことなどを、あれこれ想起する。*2

 それまで柳田國男以下、狭義の民俗学界隈がそれなりに積み重ね始めていた「南島」研究が、戦後隆盛になった「日本文化」論ブームの脈絡で新たに「基層文化」的な方向で日本文化なり民族なりの「起源」探しの格好の足場として読みまわされるようになって、あの谷川雁島尾敏雄などを手始めに吉本隆明松田政男、森秀男などのいわゆる文壇論壇系ジャーナリズムの舞台に、当時としては目新しいアイテムとして受け入れられるようになっていった。その前提には、文学であれ何であれ、いずれ創作や表現の分野に戦後それまでと違う装いで、しかし基本的なところでは戦前までと地続きに継承されてきていた社会派的世界観価値観がまずは素朴に宿していた〈リアル〉への志向があり、そしてそれを武器に肉薄しようとしていた「事実」というのが良くも悪くもあった。それに対して、それまでのような一枚岩な信頼をすでに失いつつあったマルクス主義的リアリズムが、それとの対抗関係でしか立ち位置を決められないままだった近代主義的リアリズムと共に無効になっていた分、それら「民俗学的なるもの」は「事実」に対する新たな角度からの大文字の準拠枠として機能させられるようになっていた。もちろん、年来言及してきているあの「底辺」「残酷物語」ブームなどもそれらの流れの上に、より大きな同時代のそのような気分の側に合流してきたこと、言うまでもない。*3

 「民芸」はそのような同時代をくぐり抜けながら、その後、1970年代に入るあたりで電通以下、ようやく「消費」位相の増幅に向かって、より意識的に動き始めていた広告資本の仕掛けた「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを下支えする「日本」イメージの中核に位置づけられていった。若い女性たちが女性たちだけで国内旅行をカジュアルに楽しむこと、は当時のいわゆる団塊の世代を中心に広まった流行の世相風俗にもなっていて、「京都」がそれら国内旅行先としてターゲットにされていたことはもう一度振り返られていい「歴史」でもある。*4

渚ゆう子 - 京都の恋

 1970年リリースだが、ベンチャーズ作曲で大阪万博の記念曲でもあったというから、あれこれお察し案件ではあったのだろう。
 あるいは、またこのような言及も。
hokutonomado.com

 金沢、高山、萩、津和野、鎌倉、角館など小京都と呼ばれる町は賑わいを見せたものだ。管理人の親戚が萩駅前で土産物屋を営んでいるが、その頃は大行列、しかしながら今ではその面影すらないらしい。「anan」の創刊が1970年なので乙女たちも40代後半から還暦に届こうとしているのだ。70年代前半が「ディスカバー・ジャパン」、後半が「いい日旅立ち」である。

 「桃尻娘」までがその脈絡にプロットされているのにはちと驚いたが、橋本治の原作でなく映画化されたものベースでならば、まあ、わからないでもない。ブームというよりもそこから発したある一定の若者世代のユースカルチュア的な定着まで視野に入れるならば、70年代後半から80年代初頭あたりまで引っ張ることにもそれなりに妥当性はあるだろう。その時期、ユースカルチュア一般にファンシー属性が濃厚になってゆく過程で、その後の「清里」系リゾート風味な若者向け観光地ブームなどにも連続していったわけで、それはヤンキー文化の「商品」化やその後のスキーブームなどにまで連続してゆく「若者」標的の「消費」文化爛熟への下ごしらえでもあった。*5 ヤンキー文化の「商品」化の関連ではこのへんも。d.hatena.ne.jp

 とは言え、可視化されていった過程と〈それ以外〉の関係というのも、例によって常にある。というわけで、またもこれは「団塊の世代」をめぐる継続的要検討お題にも当然、連なるものなのであった。


*1:「民衆芸術」≒「民芸」だったはず。

*2:このへん、黒澤明大島渚なども同じような文脈で祀り上げられていった70年代というお題にもつながる。もちろん、映画界にとどまるお題ではないこと、言うまでもない。

*3:このへんについては、これまでの古証文類にも繰り返し反映されている問題意識と共に、こんな具合に。 d.hatena.ne.jp d.hatena.ne.jp d.hatena.ne.jp

*4:カジュアルな国内旅行、が「旅」というもの言いで「若者」消費に紐付けられてゆく過程で「京都」や「北海道」は早い時期から標的にされてきていた。このあたり、パブリックイメージの形成過程といった視角と共に「民俗」レベルの「歴史」としても、また。

*5:このあたりは近年、「ファンシー絵みやげ」などのもの言いで着目する人がたが出始めている。withnews.jp ima.goo.ne.jp