ある博士持ちの死・雑感

 学部の卒業が見えてきて、全く関係ない分野のしかも他大学の大学院行ってみたいと言うた時、死んだオヤジは「で、おまえその道っていくつになったら喰えるようになるんや?」と淡々と尋ねてきて「喰うこと」を改めて意識させてくれた、それは心底ありがたかったと後々まで思い返した。40年近く前の話。*1

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 だから、界隈で話題沸騰なこの東北大博士持ち♀の自殺の件も、そういう〈リアル〉をちゃんと教えてくれる「関係」が稀薄だったのかも、と。おにゃのこだしマジメにベンキョーしたいんならいいよね、頑張れよ、くらいの「許され方」があたりまえだったりするのは、良し悪し別にそれもまたもうひとつの「そういうもの」なのかも知れんわけで。「マジメ」でいいコで、おベンキョでも何でも、少なくとも世間の側から「いいこと」認知されているようなことに頑張る若い衆、殊に♀はなおのことそういう〈リアル〉から疎外された環境に置かれやすいというのはあるとおも、しつこいけど良し悪し別に「そういうもの」のひとつとして。

 興味関心のあることスキなこと、をやりたいと思う、思ってそれをやれる、そんな環境ってのはそれ自体「高等遊民」的環境でしか成り立たないのは昔も今も基本変わらんはずなのだけれども、同時にまた、そういう〈リアル〉を自覚しなくていいような環境に置かれていることの不幸不自由ってのも一方では厳然と、そして昔も今も変わらずあったりするわけで。
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 「理解のある親(でも何でも)」ってのはそういう意味では、ほんとに無意識の毒親になったりもするわけで。これ、オトナ一般、世間の側一般にまで敷衍してもとりあえず構わんような大問題だったりするかも知れん、と本気で思うとる。

 「おまえの好きな道をゆけ」「やりたい仕事を選べばいい」的な「ものわかりの良さ」「理解のある態度」が、高度成長期以降の過程であらゆる階層出自背景の親≒オトナの「(実際そう思っていい環境かどうかはともかく)そういうのがこれから新しい時代のあるべきオトナの態度」的理解になっていった問題。

 特に、親が教員や公務員系、親自身もそれなりの教育受けることができてきていて、そのことの恩恵も社会的にすでに受けていると自覚できているような場合、あまり深く考えずに「入院」したり「好きなこと」追い続けて煮詰まったり、てな事例は多かったようにおも、半径身の丈+α程度の見聞に限っても。

*1:ひとつ話として割とよく話す挿話。ロクに正面から説教したり話しかけたりをしない/できない昭和ひとケタ生まれで、しかもその後突然死していきなりいなくなったオヤジだったが、こういうことだけはきっちり教えてくれていたところがあった。