人文系蠱毒化のこと

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 ブンガクだのゲージュツだのアートだの(その他何でも)を扱う能書きやガクモンその他の世間って、もう何かの呪いみたいに「通俗」や「世間一般その他おおぜい」をなかったことにしたまんまどんどん蠱毒化≒精密化wしてゆくブラックホールみたいなもんになっとるなぁ……その世間に棲息しとる限りは平穏な、かつ先進的なw環境は維持されとる(と本気で思える)んだろうが、でもそれもうひとつのエリジウムでしかなかったりする、という可能性については意図的か無自覚にかきれいになかったことにするのがその世間の掟らしいんだわなぁ。
 
 日本語環境での〈知〉の自閉エリジウム蠱毒化、は人文系の、ことば「だけ」でとりあえず需要供給円環ゲームが完結できる度合いの高い分野(ブンガクだのテツガクだのシソーだの)ほどきれいに完璧に形成されてきとるらしくて、な。80年代的ポスモ/ニューアカ的言語空間&情報環境の爆心地付近で社会化&〈知〉的形成して、なおかつ何らかの僥倖で延命した個体らがそういう自閉エリジウム蠱毒化のジェネレーターになって大綱化重点化以降のガクモン再生産環境を動かしてきとるというワヤ、な。

 明治期農政官僚時代の柳田國男の「中農養成策」って岩本由輝や藤井隆至なんかが詳細に検証しとったけど、当時あれが官界その他「意識高い」界隈に受け入れられんかった葛藤&ジレンマって、いまどきエリジウム再生産構造に対して抱く「それ、違う」な無力感とどこか必ず通じるところがあるようにおも。

*1:例によっての「トーキョーエリジウム」関連のお題。気がついたところでメモ書き備忘録にでもして蓄積してゆくことからしか、きっと先行き見通せるようなまとまった何ものか、も出現するはずもなく。少なくともそういう信心だけは揺らがないようにしつつ。