「流れ」について

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 駅構内でも歩道でもコンビニの駐車場でもどこでも地べたにへたりこむ人がた、殊に若い衆世代が珍しくなくなってきたのはあれ、都市部だけでなくどこでも舗装された地面が当たり前になって、土が露出している地面が日常からほぼなくなったってことが大きいんだろう。

 「キャリー」と呼ばれるあのキャスターつきの小型トランクが一気に普及したのも。あとあれは都市部だとエスカレーターやエレベーターが増えて段差を階段などで自力で昇降する場所が減ったことも含めて。クルマや電車、飛行機などの交通手段抜きの徒歩でしか移動手段がない環境だとあの「キャリー」一択ではなく、バックパックなり何なり身につけるギアになるはず。「移動」自体のあり方がそういうものになっている。

 あと、舗装完備の都市環境は「室内」「室外」の敷居を意識の上でも減らしてゆくらしく、自動ドアや自動改札、バリアフリー化などもそれを側面援護する。それらに支えられた「流れ」が日常の常態となるのは、あの品川駅コンコースの映像を見てもわかるいまどきニッポンの日常のありようかと。

 そのような「流れ」はできる限りシームレスに、停滞することなく維持されるべきであり、だから自動改札やレジ先でトラブることは最も忌避されるインシデントになる。ムカつく、や、イラッとくる、などのココロの発作みたいなものも、それら「流れ」が阻害されたことを契機に瞬発的に起こることがどうも多いような気がする。

 ココロやキモチはそのような「流れ」に同調していて、生身の視覚聴覚その他の感覚もイヤホンなどを介することも含めてスマホなどのデバイスに直結している状態。耳にワイヤレスイヤホン、手でスマホをいじりながら眼は画面に、というモードで「移動」の「流れ」に乗るのが「合理的」な状況。

 で、そのような状況のある極相のような都市部の通勤電車における「痴漢」行為というのは、以前までの「痴漢」行為と果して本当に同じものなのか、という素朴な疑問も、また。それら行為をする側と共に、される側も含めて。

*1:シームレスに、超伝導のように何らかの「流れ」を阻害しないようにすること、が最優先されるような意識の遍在化、について。都市化/現代化/トーキョーエリジウム化、のある側面としても。