「自分の意見」と底辺クラスタ、他・メモ

 インターネットに長年引きこもっていたような、底辺クラスタの人は、ネットに転がっている情報を集めて、それっぽくパクって書いて知っているフリをするのは、慣れているみたいですが、長期引きこもり故に、実学や現実での経験が足りないから、言っている事が悉く人生エアプっぽくなるんですよね。


 底辺クラスタ特有の、虚言人生エアプの社会語り。アートマンとかも、「娘と公園に遊びに来た」とかついーとしながら、どう見ても盗撮やんみたいな、アングルの幼女の写真あげていましたし、自称勤続十年越えた公認会計士なら、当然知っている事を知らなかったりで、人生エアプ感満載でしたし。

 
 底辺クラスタの今の姿って、青春をインターネットに引きこもって過ごしたロスジェネ(+ちょい下の)世代が、歳をくうとどうなるかの見本市ですよね。SNSで青春を過ごしているであろう今の陰キャの十代二十代が、10年後とかに彼等のようになるのか、はたまた違う結末になるのか、見ものです。


 アングラサイトで青春を過ごした元若者が、ついったで底辺中年になるのは証明されましたが、SNS経由だけで交友関係を構築している、陰キャの若者が、今後彼等と同じ道を歩むのかどうかは、興味があります。SNSでの交友は、リアルでの交友の代替となるか否かの社会実験。

 「パクツイ」とか「エアプ」とか、Twitter周辺から出てきたもの言いは、概ね相互のコミュニケーションに関する部分での言わばバグやジャムり的な現象について名づけられてきたものが多い印象がある。それは、文字の読み書き作法の現在に関して言えば、たとえば「引用」や「参照」、「参考」などのやり方や慣習法的な意味でのルールなどがいろいろ変わってこざるを得なくなってきているらしいこと、などとも関わってくることだろうと感じている。

 ちょっと聞きかじったり読みかじったりした知識や情報を、そのまま割と臆面なく会話や授業で「引用」する習い性などは、おそらくこのへんと近いものだと思う。「引用」と言ったが、要は「シッタカ」の知ったかぶり程度のもの以上でも以下でもない。聞きかじり読みかじった断片を自分の中でいったん吟味したり確認したりすることなく、あ、そういうことなのか、という鵜呑み丸呑みに近い回路でバッと「自分の意見」のように取り紛れさせて放出する。

 で、ここがポイントなのだと思うのだが、そういう人がたのほとんどに「悪気は(ほぼ)ない」らしい。なぜなら、どうかするとその「シッタカ」の「ネタ元」であり側、こちらならこちらにまで「これでいいのかな?」などとその見事に「パクツイ」「シッタカ」した書きものを見せて確認にこられたりするわけで、何というか、自分にとって「役に立つ」と思った知識なり素材というのは、ある意味共有資産、誰もが自由にアクセスして使いまわして構わないオープンソースwの「情報」として見ているんだろう、と判断せざるを得なかったりする。なにせそういう人がた、悪いことをしている、という認識や後ろめたさなどは感じられないから、きっとそういう性格、もしかしたらビョーキかも知れないけれども、だからと言って正面から糾弾したりしてもこりゃ始まらんな、と思わざるを得ないわけで、このへんはフラットな「情報」源としてweb環境からあれこれ引っ張ってきて切り貼りすることを「キュレーション」などと称して過剰に正当化する向きなどとも、通じてくる何ものか、だと思う。

 こういう身ぶり、身近な見聞だと高校の教員あがりの人がたに顕著な症状のように思うのだが、果してそれは一般的なものなのか、ある程度の背景やそれなりの理由などがあってそうなっているのか、などについては、継続審議のお題のハコに入れてある。