メシマズ家庭の記憶

メシマズの人って、祖母がそうだったけど、手順に従わないで手を抜こうとするなんてのは序の口で、余計なことするからダメ。おでんの具に色がつくぐらい煮込むなんて絶対無理で、小学生だったわしの机をあさって水彩絵の具で色をつけてたからね。開き直って「腹に入ればいっしょ」はカワイイものよ。


なにかにつけて吝嗇だったのが諸悪の根源。出汁がもったいないから水で味噌を溶いた薄い味噌汁とか、もはや粥ではないかと思われるほど水っぽいメシとか、おかずちいえば、鍋いっぱい具を放り込んだおでん、減ったら追加して毎日毎日、出汁ぬきの味がしないのを食べてたなぁ。


わしは小学校の家庭科でメシの炊き方から味噌汁の作り方を覚え、インスタントラーメンも袋に書かれた手順に従ってつくればけっこう喰えることを覚えた。こうすれば調味料をケチれるとか、余計なことを考えなきゃ普通の味がするものが喰えるんだわ。それはそれは大いなる発見であった。


祖母は、食材を買うカネがあるなら、小遣いは多すぎだといって、留守中にわしの財布をあさって金を盗った。親戚一同に聞こえるように、法事の席でカネ返せと喚き散らしたなぁ。孫の財布からカネ抜き取る祖母は実在しました。はい。あとは調味料も「もったいない」からって隠されたり。


そして、庭に野菜を植えてたんだけど、これも通学中に祖母に盗られた。結果、家庭内暴力に至った。バット振り回したりしましたよ? 家具や建具を破壊しまくったもんね。それでもメシは不味くなければイケナイという信念に生きた人だったねぇ、祖母はけっして屈しなかった。

メシマズな人は、うまいメシが憎いんだよ。友人達と外で贅沢な食事をして帰ってくることはあったけど、なにが美味かったっていってるのを聞いたことがない。あれは高いモノ喰ったという見栄を楽しんでるんだ。味なんかどうでも良いのよ。母の死後かつ祖母の存命中の十年で、わが家庭は崩壊した。


長時間煮込んで、良い具合にとろみがついたカレーを、さあ一晩おいて明日食べようと思っていたら、水でかさ増ししてあるんだよね、学校から帰ってくると。食い物は、須く不味く調理すべし、という信念に基づいて、祖母が実力行使するんだよ。そんで、水っぽい、かつてカレーだったものを喰わされた。


日曜日、鍋の前に貼り付いて見張ってないと、まともなカレーは喰えなかった。バットくらい振り回すさ、そりゃあね。


その祖母にしても、プラモデルを買うのは贅沢だとかいわなかったし、無理矢理返品させたりもしなかったし、わしの財布からカネを抜いたのは、やはり自炊の食材調達が腹立たしかったのだろう。メシにカネを使うな、それだけは我慢ならないという。


思い出したわ。祖母がスパゲティー・ミートソースをつくるといって、まず買物に行くわけだ。スパゲッティよりもマカロニが1円安いからって、マカロニをカゴに入れ、ミートソースは肉が入ってないブラウンソースの方が断然安いので、それをカゴに入れる。で、その食材をわしが暴力で奪い取ったのよ。


ミートソースなら出来合いの缶詰のを(まだレトルトはなかった)湯煎するだけだから、余計なことさえしなければ全然喰えるはずと思ってたら、これでナニをつくれと言うんだと絶句した男子小学生。

「ポプラ」の記憶

f:id:king-biscuit:20220111230716j:plain

ワイ学生の頃ポプラでバイトしてた時にホストやヤーさんが大盛りって言ったらこれぐらい突っ込まないと本気で怒られた。レジにカップ麺何個も投げつけられてそれを受け止めてレジ打ってた。なぜかジュラルミンケースみたいなのに買ったカップ麺入れて帰ってたホストさんとか…その人明け方泣いてたり…


そのポプラもワイが大学卒業してすぐに潰れて飲み屋になって、メッサ寂しかったなあ…。ロクでもない立地のロクでもない客層のとんでもないポプラだったけど、未だに色々思い出す。お客がヤクザとホストとキャバ嬢風俗嬢ラウンジの人と、明け方の謎の社会人?周りも自分も狂ってたと思う。


ワイがコンビニバイトしてた頃はまだ廃棄をもらえて、グリル弁当?かな、よく貰ってた。夜にゴミ捨て用の外のロッカーに行くときに必ずホームレスのオッちゃんがいて、廃棄前にオッチャン用にいくつか狙ってて。たまにケーキとかお菓子が出る時は分けてた。でもセブンとかから全部禁止になっていった


月に一度か二度、ヤクザの偉いおっちゃんと若い人20人くらいが来店する時があって、大抵その偉い人が20か30万くらい置いて若い人らが欲しいもんを買う日があって、相方と全力でレジ売ってたけどポプラは弁当にご飯つめてふりかけつけてラップするからヤバい。でもその時のヤーさんは優しい。待つ


ホストの人で仲良くなった人がいて、その人は夜7時くらいにカップ麺とか買って、明け方に弁当買って帰るんだけど夜はめちゃくちゃ優しいのに明け方はいつも酔ってブチギレてて、たまに素面の時にすまんすまんと謝ってきて。とにかくキャバ嬢や風俗嬢のお相手を明け方前にするのが凄くツライらしい


たまにその人は泣いてたなあ…。てかヤクザの人もよく泣いてる人がいた。理由は知らないけど、とにかくこの手の業界はメチャクチャ辛いみたいだから絶対に真っ当に生きようと固く決意した。あと、やっぱりモロに犯罪行為をされたらヤクザの人も警察に通報するんだなあ。色々あったけど警察がよく調べに


なんかそんなとんでもないコンビニの深夜勤務が1人だったわけで、ワイも何故そんな店の深夜に一人で入り続けていたのかは分からないけど、顔見知りになったお客の人達からは、とにかく真っ当に生きろみたいな話をよくされた。アレはホンマに大事なことだったんじゃろうなあ…


ヤクザやホストや嬢やヤンキーより、明け方とか6時前辺りにくる社会人?の人たちのほうがワシは怖いし嫌だった。ワザと一個づつ会計させて消費税の関係で1円づつ節約しないとブチギレとか、綺麗なスーツの40前のビジネスマン風なんだけど必ず買うものがたまに品切れだとブチギレとか、今思うと薬か病気


夜の1時過ぎてぼーっと外を見てたら、ダーッと全力で走り去るおっさんの後ろを5、6人の兄ちゃんが追いかけてたり、60ぐらいのオッチャンが綺麗なお姉さんに肩貸してもらいながらニコニコでゴム買っていったり、外からボヨンボヨンって音がするなと思ったら白装束の若い人20人がクラウンをボコボコに


クラウンの持ち主のオッチャンがホンマに半泣きで『ニイチャンやっとるやつ見たんじゃろ⁉︎』言うて警察と一緒に店に来て、ワシはクラウンを夜の繁華街には絶対に止めないようにしようと思ったしウチの駐車場にオッチャン勝手に止めて飲んでたくさいからもう何が何やら


そういえば弁当と一緒にお酒を買って行く人は少なかった…ていうか自分が客に飲ませる仕事の人ばかりだから当たり前か…タバコも全然売れなかった。でも変なエロ風の本?ばんがいちみたいなのと売れるが、少し違う感じのエロ本がよく売れてて、如何にしてそれを取りやすくするかが大事だったような

そのポプラと同じか分からないけど、東京の勝どき駅近くにやはり「ポプラ」と言うコンビニがあって、その駅を利用してた頃はよく寄ってました。最近、久しぶりに勝どき駅に行く機会がありましたが、既に無くなっていましたね。

赤地に白抜き文字でポプラって書いてて葉っぱのマークがあったら間違いないすね。お弁当にご飯を詰めてラップしてふりかけつけるならもう確定。

昔市ヶ谷防衛省前にポプラがあって予算期とか飯ギュギュウ詰めがバンバン売れてたから事務方制服組もやっぱ自衛官なんだなあ。って実感したことある。


飯田橋に住んでた頃は外堀通りにもポプラがあった。バイクで新宿通ってたから帰りは自分もごたぶんに漏れずギュギュウ詰めした。閉店してから確かハナマサになったのか。いずれにせよ通うことになった。

あるおもちゃ屋のはなし


f:id:king-biscuit:20210919163157j:plain
f:id:king-biscuit:20210919163721j:plainf:id:king-biscuit:20210919163754j:plainf:id:king-biscuit:20210919163806j:plainf:id:king-biscuit:20210919163821j:plainf:id:king-biscuit:20210919163837j:plain

マリトッツォ、または「白いクリーム」関連・雑感

 ファストフードで「出して欲しいバーガー」のアンケートを取ると必ずローカロリー野菜バーガーが上位に来るけど現実はメガ盛りの下品バーガーが売れる。客の意見は建前が入るから当てにならないって言うよね。でもマリトッツォって逆にメガ盛りスイーツのオシャレ言い換えだと思うの。あれは発明ですよ


 元々イタリア伝統の菓子だとかそういうことじゃなくてさ。日本で当たった理由はそういうことなんじゃないのかなーと。

 これを爆盛りド級生クリームパンって言うと駄目なんでしょ?

 だから実は興味津々なんだけどちょっと品がなくて一般客が手を出しにくそうだった食べ物にオシャレ系な名前とそれっぽい出自を付ければ日本で大ヒットするということではないのか。二郎系ラーメンに「これは本場フランスで伝統的に食されているパスタ『パタリロ・ド・マリネールです』」とか言ってさw

 いつまで続くものかはともかく、2021年の夏あたりから流行していることは間違いない喰い物。単なる生クリームないしはホイップクリームをてんこもりにはさんだクリームパン、というのは概ねその通りのブツではあるが、ただそのパン生地も揚げパン的な感触の生地だったり、やかましくこだわるなら「違い」はあると言えばある。

 で、なんでこんなものが、ということになるのだが、要はこの生クリームないしはホイップクリームをどれだけうしろめたさなくてんこもりに喰えるのか、というあたりの、近年本邦世間一般その他おおぜいの潜在的な要求に答えたメニューの一環なんだろうな、と。少し前もてはやされた「パンケーキ」などと同じハコ。あれも本体はそのパンケーキ生地の上にてんこもりにされたそれら生クリームないしはホイップクリームだったわけで、さらにあれこれ果物やらアイスクリームやら何やらをトッピングしようが、眼目はあの「白いクリーム」ではあったはず。

f:id:king-biscuit:20211027123045j:plain

 同じような流れで「パフェ」ブームというのも少し前からあった。それも夜のバーやカフェ的なしつらえの店でメニューとして出されたり、さらにそちらが主体の「パフェバー」になったりとまあ、かつての「辛党/甘党」などという区分などすでにどっかへすっ飛ばされた潔さだったわけだが、あれも思えば「白いクリーム」をうしろめたさなく、心おきなく摂取していい、という免罪符をどう合理的に獲得できるか、という消費者側のココロの敷居をうまく解除してくれるたてつけになっていたのだろうと思う。

f:id:king-biscuit:20211027123058j:plain

 本邦で割と早くから身近な「洋菓子」のひとつになっていたはずのあのシュークリームにしても、もとはカスタードクリームだったはずなのだが、生クリームないしはホイップクリーム(しつこい)をあわせて入れるようになり、最近はカスタードを押しのけて生クリームないしはホイップクリームだけのものも普通に並ぶようになっている。

f:id:king-biscuit:20211027123150j:plain

 個人的な記憶に限れば、確か小学生から中学生くらいの頃だから1970年代の前半から半ばくらいの頃、当時住んでいた阪神間の阪急沿線駅前の小さな洋菓子店のシュークリームに、この生クリームを入れたものが新たに出現していたような気がする。店の名前は「エルベ」。それだけで何か贅沢感というかステキ感が格別で、まわりでもそれなりに評判になっていたはずだ。それは同じく当時、地元のスーパー(生協だった)の店頭で売られていたソフトクリームが、それまでの3倍くらいの分量の「おばけアイス」というメニューを出して、これもまたガキ共の間で人気だったことなどとあわせて、「白いクリーム」の魅力が少なくともその頃、すでに何かあやしいチカラを発揮しつつあったらしいことをうかがわせる記憶になっている。

 なのに、どういうわけか、その「白いクリーム」そのものを思うがままにトッピングできるようにしつらえられているスプレー式の商品、いかにもアメリカ的な「文句あるかよ、あるわきゃない♬」的なシロモノでミもフタもない感じを受けるあれらは、しかしこと本邦の食物商品市場ではそんなに存在感を増しているわけでもない。国産化されたものだけでなく、モロに輸入品のデカいやつもコストコでも最近は売られているものの、そう売れている風にも見えないのはさて、どうしてなのだろう。どうも記憶の底を探ってゆくと、あの「白いクリーム」だけをただそのために心おきなくスプレーで使いまくる、というのは、とにかくそうそうやってはいけないような究極の贅沢、ある種ムダ遣いの最たるもののような「バチあたり」「もったいない」「烏滸がましい」などの感覚がすんなり引き出されてくるような行為だったようなのだ。古い世代ならば「冥加がおそろしい」とでも言うような、そういう感覚。

 f:id:king-biscuit:20211027114734j:plain

 「白いクリーム」で連想するなら、まず「練乳」というのがあった。コンデンスミルクというカタカナ表記で売られていたが、あのへんが「白いクリーム」幻想の原風景だったかもしれない。

f:id:king-biscuit:20211027124305j:plain

 あれをイチゴとあわせた「いちごミルク」という喰い物あたりは、おそらくそういう「白いクリーム」が戦後の本邦その他おおぜいの意識に刷り込んだであろう何らかの幻想なり夢なりを、喫茶店の「パフェ」などでなく、最も身近な台所の食卓でささやかに実現できるようにしてくれたものだったような気がする。もちろん練乳、コンデンスミルクをかけるのは贅沢だったわけで、多くは「牛乳」で代用していた、だからこそ「いちごミルク」の呼称になっていたのだが、ただそれ以前にまず、イチゴをそのまま生で食べるのでなく、わざわざ牛乳なり練乳なりをかけて、さらにその上それをつぶして食べるというスタイル自体がもう、身近な非日常感を醸し出してくれるものだったのは記憶の裡でも裏づけられる。そういういちごの喰い方のための「いちごスプーン」が最初に発売されたのが昭和35年、1960年らしいから、その頃すでに「いちごミルク」(と呼ばれていたかはわからないが)といういちごの喰い方は普及し始めてはいたらしい。

f:id:king-biscuit:20211027121309j:plain[
www.nikuine-press.com

 さらにその味と意匠とが「いちごミルク」という新たな名前を獲得して、ガキどもにとってもっと身近な菓子のテイストに入り込んでくるのが1970年。

f:id:king-biscuit:20211027121246j:plain

 ああ、こうなるとあのサンリオを一躍、キャラクター商売に覚醒されることになったとされる「いちご柄」問題にまで波及してくるなぁ、というわけで、「白いクリーム」から例によってとりとめない連想妄想連関想起をやってみた次第。もちろん「結論」などはない、あるわけもないので、継続検討&審議なお題の備忘録としてとりあえず。

f:id:king-biscuit:20211027121536j:plain



 

氷川きよし問題・メモ

https://twitter.com/adamas_mm/status/1436936768952029184

 私もいずれ年下の推しができることもあるかもしれないので肝に銘じておこう……今は自分より年上の老境に突入しつつある推したちを眺めて「とにかくひたすら御本人が悔いのない人生を歩んでくれ、こちらの推し甲斐はこちらが勝手に見出すから」と願うばかりですが……あっ、そう考えると同じなのか。


 身近に60代と80代のきよしファンがいるけど「私達はじきに死ぬ。きーちゃんのこれからを考えたら、私達が好きとか理解できるとかより、若いファンを増やしたり、本人が幸せに生きてることの方がよほど大事」って真顔で言われたので、ほんと愛です、愛。あと母性。 twitter.com/adamas_mm/stat…


twitter.com/nei_nein/status/1437009924958011394


 中には、もっと地味かつもっとあからさまに、それまでついていた古参を振り落として新しいファン層を築いていくような活動形態を選ぶ人もいる(別に良し悪しではないけど弾かれた側として淋しくはなる)が、たしかに氷川きよしはそうはなっていないよね。チラチラ見ているだけでも伝わるのが凄い。


 あと今現在の80代以上がどうかは私はよく知らんけど、一部の60代70代に関してはむしろ今のほうが大好物なのでは? 私が子供の頃つまり30年40年前ならいざ知らず、今現在の70代って沢田研二24年組と同世代ですからね。デビュー当時の氷川きよしを追ってなくても今現在から食いつきに行くでしょ。


 黎明期ヴィジュアル系や及川ミッチー光博らへんが取りこぼした世代を続く井上芳雄氷川きよしラインがカッ攫っていくのは、大変よくわかるんですよね、私はこの二人と同年代なので……芳雄の後ろには昭和の少女漫画から飛び出してきたような体型の2.5次元出身俳優がぞろぞろ控えておるしな……。


 なので私は氷川きよしは、報じられる通りの「素を出す」側面も当然あるんだろうけど、それと同じくらい「ちょうどぽっかり空いていた玉座に満場一致の支持率100%で就いた」側面もあるだろうと思う。やりたいことと求められているものの重なる部分に勝機を見出して正しく攻めていて、上手いなぁと。


 やらしい言い方すると「1950年前後生まれが新しい感覚の60代70代になるタイミングを待っていた」のではないかとさえ感じられる。なんでこんな熱く語るかというと私と私の親世代も40歳前後と70歳前後で、20歳と50歳のときなら勘当されたかもしれない議題について、味方につけるなら今、と思うから。


 「北風と太陽」じゃないけど、うちの親は我が子に沢田研二やルージュマジック見せておきながら10代の私が新しい化粧の男たちにハマるとボロクソに腐し、でも娘と同年代の演歌歌手が40代でああなることは全面支持だと思う。親世代が中年期に着込んだコート脱がせたキー様、太陽な〜! と震えます。


 多分また新しい狭間の世代がいて、彼らは今現在の氷川きよしの転身にピンと来ず、そんなに快く思ってなかったりもするだろうけど、でも彼らには彼らに合致した太陽みたいな次代の救世主が現れて、戦略的かつナチュラルに、いつの間にか着込んでいた分厚いコートを脱がせてくれるのだろう。順番に。

ひろゆき幻想・メモ

 ひろゆき2chの板の向こうにいて、こっちへ出てくるときは一言居士というかコメント屋だったからバレなかっただけ。これを見て幻想を勝手に抱く人が現れてキャラが成立。このキャラをひろゆき本人が演じてみせようとするから悲惨な結果になっている。人から与えらたキャラを自分自身と思ってそう。


 ひろゆきへの幻想っていうのは2chすべての印象と、そこに登場した無名の達人たちのイメージじゃないかな。あきらかにひろゆきより優れた2chの本質だった人たち。これが自分自身であると勘違いしているひろゆきという人は、かなり危ういし愚かということになる。


 電車男はプロモーションであって、そもそも創作であり、このいずれにおいてもひろゆきが勲章にすべきものではないし。

 ひろゆき、がある種の文化英雄的にもてはやされるようになった昨今。小学生中学生などの、それこそYouTube世代がスマホ介した映像コンテンツで育んだリテラシーを武器に、そのいまどきのひろゆき像を増幅しているところもあるような話が。
 
king-biscuit.hatenablog.com

情報番組の現場の作法・雑感

 情報番組さんは、基本、局側のわりと適当な思い付きのラインに沿って、予定調和的に番組を作ってるから、専門家に想定外の事を言われたら困るんだよ。だって予定していたフィリップ *1 だとか、動画だとか使えなくなっちゃうでしょ。だからあの番組の作り方をしてる限りは、永遠にダメだと思うよ。


 その点、タレントさんは「演出の意図」を読んで動いてくれるから、有りがたいのだと思う。なので、テレビに出たい評論家の一部も同じ事をする。「視聴者が期待していること」を言えば、番組は視聴率が取れるもんね。まあデイリースポーツの阪神報道と同じ。でも、それは専門家の仕事ではないんだよ。


 この手の番組に間違って出て、何かをデータに基づいて説明したにも関わらず、アンカーさんやタレントさんに、「私はそうは思わないですね」的に返された経験は多く、その後「あんたの感想、何の意味があるんだよ」と思いながら、作り笑顔で座り続けるのは、結構な苦行である。


 例。自分「思い込みとは違って、大統領の支持率は安定しています(世論調査結果の紹介)」出演者さん「おかしいでしょ。あ、反日だから支持されてるんですね!」自分「大統領の支持理由はこちら(再び単なる紹介)」出演者さん「データ間違ってるでしょ?!捏造でしょ」自分(もう帰らせてくれよ)


 で、この後、アンカーさんに「さあ、こうして危機に直面するとも言われる韓国ですが」、と無理無理続けられると、あたかも自分が持ってきたデータが誤っていたかのようになり、どこかの宗教団体の人のように、フィリップを投げて帰ろうか、と思うわけである。

 こういう「テレビの文法・約束ごと」と、いわゆる活字のそれとの違いについては、僭越ながら我とわが身を張って「実験」(柳田國男的語彙、な) し、ことばにしたことがある。

 自分が見聞きしていた30年近く前の情報環境では、NHKと民放の違い、というのも、現場に接した肌感覚としては相当に違うものがあった。そこには存在していないけれども、でも間違いなくその現場――スタジオとそのまわり、副調整室やら何やら全部ひっくるめての空間を律している何ものか、が厳然とそこに「ある」、それは確かに感じられた。「スポンサー」であり「クライアント」であり、でもそれだけではなく、それらの向こうに「ある」ということになっていて、そこから発する磁場によってこの現場も制御されている、そういう存在。「視聴者」と端折ってしまえばそれまでだろうけれども、でも、そんな端折り方でことばにしてしまっていいものではない程度には、神々しくも禍々しい、それこそ「デウス・エキス・マキナ」ですらあるような形象。それが民放の現場には「あった」。

 NHKの現場には、そんな形象は当時、まだそんなに感じられなかった。いや、そりゃ紅白歌合戦だの大河ドラマだのになると、また別だったのかもしれないが、少なくとも教育テレビや衛星放送という「裏街道」の現場では、ほんとにそういう「視聴者」的な形象が強烈に意識されていると感じたことは自分にはなかった。むしろ、その頃の自分的には、ほとんどNHK界隈での仕事が主だった分、たまたま民放のお座敷がかかって出張った時に、その「違い」について鮮烈に焼きつけられたのだからして。

 ここで触れられているような、いわゆる「情報番組」的なたてつけは、当時はまだそんなにはっきり現われていたわけではなかったから、かもしれない。例の「朝まで生テレビ」あたりが、もしかしたらここで言われているような「情報番組」的なたてつけに近い雰囲気があったと言えばあったかもしれないのだが、でもそれにしたところで、ここまで「進行」があらかじめ決められて、それに沿って現場のスタジオ内での立ち回りや発言などまで、事前に有形無形に規定されてゆく、とまでは言えなかったと思う。あったのは、それぞれの出演者(パネラー)の「キャラ」の把握が、スタッフとおそらくは司会の田原総一朗や局アナの側である程度はあって、それらの「キャラ」前提で現場の展開がある程度「予測」はされていた、それくらいだった記憶がある。さらに言えば、それも出演者個々にそういう舞台裏の仕切りがいちいち語られるのではなく、あくまで局の制作側、司会者からカメラマンその他スタッフの立場において、言い換えれば「楽屋」を仕切る側に共有されているもの、という敷居は確かにまだあった。

 おそらく、なのだが、ある時期からこっち、それこそあの「雛壇芸人」を当たり前に並べ、「コメンテーター」を複数配置して番組を転がしてゆくような「情報番組」があからさまにおおっぴらになっていった過程で、かつてはまだその「楽屋」を仕切る思惑の台帳みたいなものとして共有されていたに過ぎなかったものが、現場全体を自明にあたりまえに支配する基本的な法規のように君臨していったのではないか、と思う。出演者のほとんどで「事務所」や「プロダクション」に所属する「タレント」になり、それらタレントである以上、「芸能界」的な縛りの裡にあるということがわざわざ意識せずとも「そういうもの」として当たり前になっていった過程。

 ああ、そうだった。大学教員が芸能プロダクションに所属し始めたのも、40年ほど前、ちょうど自分がテレビの仕事をあれこれこなすようになっていった前後の時期の、栗本慎一郎からだったっけか。最初、それを耳にした時の衝撃というのも、すでに「歴史」の彼方の忘れられた〈リアル〉になっているのだろうが、その後、大学教員であれ作家であれ評論家であれヤメ官僚であれ、誰でも彼でもそういうプロダクションや事務所にプロモートされる「タレント」になるのが当たり前になってゆき、その過程で、「芸能界」的な縛りの約束ごともまた、テレビの「情報番組」的なたてつけをおそらくは足場にしながら、あたりまえに共有されるべき基本的な法規、いわば憲法のように君臨することになっていったのではないか。

 

*1:「フリップ」な。民放的語彙らしいが。