平成残滓の正体

 「平成残滓」と言われるモノやコト、ヒトなどがどんどん勝手に役立たずなことがバレて見捨てられたり事実上廃棄されたりし始めとるが、よく見るとそれ、「戦後パラダイム」内の昭和後期的あれこれがしぶとく生き延びとっただけ、という案件が結構あるようにおも(´・ω・`)

 平成の30年間、つまりほぼそのまま「失われた30年」だったりするあの期間って、能書きや掛け声としての「戦後」からの脱却、ポスト冷戦構造への対応その他あれこれ言われとったのに、実質ほとんど昭和後期からの習い性のまま何とかしようとしてきとっただけ、だったことを思い知らされとる令和の御代。

あたしのビートルズ

 6年4組のみんな、卒業おめでとう。最後に先生から話をします。イオンとドンキしかない国道沿いのこの街を捨てて東京に出て、早稲田大学教育学部からメーカーに入って、僻地工場勤務で鬱病になって、かつて唾を吐きかけたこの街に逃げるように戻ってきた先生の、あまりに惨めな人生の話をします。


 先生の家の車にはいつもビートルズが流れていました。母が駅前の、今はもうなくなったHMVで買ったアルバム。別にビートルズが好きなわけではありません。スピードラーニングのように、それを聴くだけで自分の子供が石川遼のように英語をペラペラと喋れるようにならないかと、曖昧に望んでいたのです。


 父は地元の国立大を出て中国電力に就職しました。母は地元の高校を出て中国電力に就職しました。二人の両親もそんな感じだと思います。何にせよ二人は結婚し、先生が生まれました。この街には娯楽がないし、何より知性がありません。父の愛読書はスピリッツで、母の愛読書は花より男子でした。


 小学四年生の時だったかな、社宅の隣に住んでいた高橋さんの息子が法政大学に合格したというニュースが我が家に飛び込んできました。「東京」という、この街には存在しなかった選択肢が降ってきたのです。両親も、そして何より私自身も、岡山大学を出て中国電力にでも就職するものだと思っていました。


 子供を育てるというのは大変なことです。質量保存の法則みたいなもので、自分が与えられてきたものしか子供に与えられないものです。親から少女漫画しか与えられてこなかった母は、子供を東京の大学に入れる方法なんて知らなかったのです。そこで母が苦し紛れに買ったのがビートルズのCDだったのです。


 ビートルズの効果だったのかもしれません。先生の成績は順調に伸びました。近所の公立中から朝日高へ。塾にも通い始めました。駅前の東進です。東京で録画されたらしい授業のDVDを、ショーウインドウの奥のトランペットを欲しがる子供のように、この片田舎で必死で眺める。来る日も来る日も。


 第一志望は早稲田の法学部でしたが落ちて、唯一受かった教育学部に進学しました。下落合の、川沿いの三点ユニットの狭い1K。テニスサークルに入って、毎日わっしょいで飲んで吐いて、ロータリーで騒いだり寝たりして、グラニフやビームスのTシャツを着て― 先生は、東京の人になったつもりでいました。


 成人式で地元に帰って愕然としました。もうこの街に先生の居場所はないし、いたくもないなと思いました。ヤンキーは相変わらずヤンキーのまま偉そうにしていたし、岡大に通う元同級生たちは、久々に会った僕を駅前のマックに連れて行って、怪盗ロワイヤルなんかの話を延々としていました。


 この街の人生に上昇も下降もありません。この背の低い灰色の街のそのまっ平らな稜線のように。なんとなく生まれ、なんとなく大学は出て、なんとなく就職して、なんとなく結婚して子供を生んで家を買って― 逃げることを諦めた動物園の檻の中の猿のように、この街の人々はなんとなく生きていました。


 先生は違うと思っていました。先生は先祖代々続いてきた怠惰と無能の鎖をまさしく自分の力で引きちぎり、一族で初めて東京に出て、そこで成功して、二度とこの街に戻ってこないんだと、そう信じていました。帰りの新幹線。東京駅のホームから丸の内の端正な街並みが見えたときの、あのときの気持ち。


 せっかくだからと教員免許は取るだけ取って、先生はメーカーに就職しました。丸の内のメーカーです。先生はスーツカンパニーの黒いスーツを着て、仲通りを歩きました。あの春の日。空はどんよりと曇っていて、新品のリーガルの靴はどこかで擦って小さな傷が付いていました。先生は仲通りを歩きました。


 研修を一通りやって、先生は本社のグローバルマーケティング部門を希望していました。配属は僻地の工場の総務人事。最悪です。縁もゆかりもない北陸のその街は、ゾッとするほどにこの街と似ていました。イオンとドンキ。パチンコと風俗。どこまでも続くように感じられる、長い長い灰色の国道143号線。


 東京の人は先生とあと二人くらいで、残りは地元の人ばかりでした。彼らは最年少の、それも東京ぶってるけどまた別の田舎町出身のワセダ卒が、この田舎町を軽蔑していることを察知しました。先生は甘くて飲めたもんじゃない缶コーヒーを断り、家で淹れてきたキツネカフェのコーヒーを飲んでいました。


 いじめらしいいじめがあったわけではありません。しかし、嫌われて誰からも話しかけてもらえないということは、先生の心を徐々に削ってゆきました。先生は定時になると逃げるように退勤して、あてもなくヴィッツを走らせながら、車内で衝動的に大声で叫んだりしていました。誰にも届かない叫び。


 ある朝。工場みんなでラジオ体操をしている途中で先生は吐きました。古いスピーカーから流れる陽気なラジオ体操の音楽。地獄のような僻地工場勤務の一日の始まりを告げる音楽。先生は立てなくなって、あの日仲通りを歩いたリーガルの革靴がゲロまみれになっているのを見て、もう無理だ、と思いました。


 先生は少しお休みして、それでも心の調子が戻らなくて、本社人事部付で東京に戻されました。仲通りを歩いてみました。テラス席に座ってコーヒーを飲む自分が向かいのビルのガラスに映っていました。僻地で酒浸りになり、ブクブクと太った醜いその姿は、うつくしいこの街を汚しているように感じました。


 みな僕のことを腫れ物に触れるように扱いました。缶コーヒーを拒否してキツネカフェを飲んでいたとか、事務所でNujabesを流していたとか、そんな話まで本社に伝わっていたらしいのです。僕が嫌いな同期は、グローバルマーケティング部門で活躍して新卒採用のパンフレットに載っていました。


 結局、少しして先生は会社を辞めました。先生が陰で何と呼ばれていたか教えてあげましょうか?「オシャレ」です。僻地で鬱になって、本社に戻されて派遣のオバサンたちに「いつまで経っても勘定科目マスタの設定すらできない」と馬鹿にされながら、オシャレなカーディガンを着てコーヒーを飲んでいる。


 唯一受かったベンチャー経理事務をやっていましたが、そこでも「残念ながら求められるバリューを出せていない」と試用期間で切られました。問題は無能だけではありませんでした。他のメンバーから嫌われ、私以外全員が入ったslackグループができるほどに、私は人間関係に難がありました。


 たぶん先生は、自分は特別な人間だと思っていたのです。東京で生まれた人が東京で何となく生きるのとは難易度の違う人生を、先生は自分の力で生き抜き、そして自分の力で東京に辿り着いたのだと思っていたのです。先生にとって東京は特別な場所でした。自分の特別な価値を証明してくれる、特別な場所。


 そして先生は東京から転落しました。先生には特別な価値なんてものはなくて、ただ人を見下し、それでいて見下し続けるだけの努力も能力もなく、すぐにその薄っぺらい自信をひっくり返されて、今度は地面に這いつくばった自分が見下され笑われることの繰り返しで構成される惨めな人生だけが残りました。


 先生は岡山に戻ってきました。両親の暮らすマンションの近くに小さなアパートを借りて、青いアクアを買って、ユニクロを着て、そして缶コーヒーを飲んで暮らしています。採用試験を受けて、今年からこの学校で先生をやっています。ご存知のとおり、みんなが初めて担任するクラスでした。


 今年で30歳になります。何もない人生です。いや、訂正します。先生の性格の悪さ、頭の悪さ、そんないろんな、先生のダメなところのせいで、自分自身のせいで、人生という車のトランクに、先生は何かを残すことができませんでした。必死で走るそばから先生の荷物は次々と落ち、何も残りませんでした。


 最初に質量保存の法則の話をしました。まだ習っていないから分かりませんよね。先生は何を与えられてきたでしょう?何かを与えられたとして、それをまだ持っているでしょうか?そんな私に、みんなに偉そうに何かを教え、与える権利があるでしょうか?先生はいつも悩んで、また車の中で叫んでいました。


 でも、それでも先生も、みんなも、必死で生きてゆくしかないのです。誰にだって悪いところはあります。そのせいで人を傷つけ、また傷つけられることあるでしょう。先生がそうでした。おれは早稲田卒だ、東京から来たんだといつも人を見下し、嫌われてきました。それでも生きてゆくしかないのです。


 人生のあらゆるところに、あらゆる街に、不幸はみんなを殴るための棒を持って潜んでいますし、不幸に殴られたとき、だいたいの場合それは自分のせいだったりします。自分で招いた不幸に殴られ傷つくなんて!耐えられなくなって、死にたくなることもあると思います。それでも生きてゆくしかないのです。


 東京に出た先生に不幸があったように、地元に残り、駅前のマックで怪盗ロワイヤルの話をしながら氷を噛んでいた同級生たちにも不幸があったかもしれません。もしかすると袴を履いたヤンキーたちにも。もしかすると君たち自身にも。すべての人には、その人だけの見えない地獄があるものです。


 人の不幸を想像できる人になってください。先生はこんなこと言える立場にありません。先生にはそれができなくて、自分だけが苦しい人生を歩んでいて、人を見下す権利があると思っていたクソ野郎だからです。でも、それでも言いたいのです。母が母なりに私の未来を思い、ビートルズを聴かせたように。


 誰もが苦しみながら生きています。死なないでください。そして同じように苦しむ人たちを思い、ビートルズを聴かせてあげてください。私の母は父からモラハラを受けていました。短大卒のお前が何を偉そうに子供を教育しているのかと、よく馬鹿にされ、それでも彼女は、車でビートルズを流しました。


 人を思うことを恐れないでください。自分なんて、と思わないでください。年収何千万とか、フェラーリに乗っているとか、偉そうな人にも必ずその人だけの地獄の苦しみがあります。だからこそ強がっているのです。そんな人たちにも恐れず優しくしてあげてください。もちろん、明らかに弱っている人にも。


 みんなで生きましょう。死なず、死なせないようにしましょう。苦しみの中でこそ、他人の苦しみを思い、助け合いましょう。先生も、これから努力してゆきますから。お話は以上です。卒業おめでとう。

駐妻ブンガク

 「眞子様と小室さん、このカフェよく来るらしいよ」思わず周囲を見回すが、店内に日本人らしき客はいない。「噂だってば、噂」エミがケラケラ笑う。田舎者みたいな行動をとってしまい、耳まで真っ赤になる。ここはマンハッタン。NY駐妻エミの本拠地であり、限界途上国に住む私にとってはアウェーの地。


 平静を装ってメニューを開くが、値段に目が飛び出そうになる。「最近のアメリカはインフレが凄くてさ。メキシコは物価安くて暮らしやすそう」NY駐妻の余裕を漂わせながら、こちらの心を見透かしたようにエミが話しかけてくる。1mmたりとも羨ましいと思っていないことだけは、はっきりと伝わってくる。


 「メキシコシティって標高2200メートルだっけ?そういえば東京でもタワマン高層階に住んでたよね、やっぱ高い所で炊いた米って硬いの?」エミが畳み掛けてくる。勝利を確信した微笑み。悔しいことに、海抜10メートルのNYで食べるガパオライスの米は、硬くもなく柔らかくもなく、ほどよく炊けていた。


 同期で丸紅の一般職として入社したエミは内定者時代からライバルだった。立教の放研出身で、フジのアナスクに在籍していたことを鼻にかける立教女学院あがりのお嬢様。学生時代、青学でイベサー運営の傍ら、ひたちなか親善大使として活動してた私と、ありとあらゆる場面で静かに火花を散らしていた。


 エミと私の競争は、同期で一番のイケメン、慶應義塾体育会ソッカー部キャプテンのケンヤを私が射止めた事で決着がついたはずだった。コンラッドで開いた披露宴、実は内定者時代から付き合ってたと明かした瞬間のエミの呆然とした表情は傑作だった。あんたのLINE、ケンヤはしつこいってウザがってたよ。


 エミが冴えない風貌の、三角関数が得意そうな経理部の先輩と台場のヒルトンで結婚式を挙げたと聞いた時、何の感想もなかった。その頃、私はタワマン高層階で硬い米から離乳食を作るのに忙しかったから。世界中を股にかける商社マンのケンヤ、最愛の息子。あの時、世界のすべてを手に入れたはずだった。


 そして7年後。私はメキシコシティの薄い空気を吸いつつトルティーヤをかじり、エミはNYで優雅に暮らしている。「インスタ見たよ、買い出しでNY来てるんだね🇺🇸折角だし会おうよ!」メキシコと違い、物乞いの少年も銃を持った警備員もいない、セントラルパーク脇のお洒落カフェ。標高差でクラクラする。


 「ケンジ君はもう7歳か、スペイン語も喋れてトリリンガルでしょ、羨ましいなあ」これまた全く羨ましくなさそうにエミが鼻で笑う。息子のケンジはインターに通わせてるが、メキシコ人が7割の学校でお友達とスペイン語ばかり使い、肝心の英語はイマイチだ。財閥系商社と違って学費補助が全額出ないのに。


 「うちは2人目が産まれたばっかだから手続きが大変で。ほら、アメリカ国籍だし」母親同士の会話に飽きてスペイン語YouTubeを視聴し始めたケンジに気を取られているうちに、エミの国籍マウンティングが炸裂した。ベビーカーでうたた寝する三角関数2世は、誇らしげに星条旗のおくるみに包まれていた。


 「この後はブロードウェイ行くんだっけ?私はこっち来た時に観まくって飽きちゃったけど、新鮮な気持ちでミュージカル観れるの羨ましいな」怒涛のマウンティング攻撃に心が折れそうだ。ルチャ・リブレ亀田三兄弟に飽きて、家で桃鉄99年を1人でやりこむ私と果たして同じ星に住んでるのだろうか。


 「今年の夏休みは家族でカンクン行くつもりだから、もし良かったら会おうよ!」メキシコという括りで軽くまとめられたが、東京の友達に「那覇で会おう!」と言ってるようなものだ。限界途上国に対する先進国の視線が痛い。外に視線を向けると、5thアベニューのトランプタワーがギラギラと光っていた。


 青学を卒業して総合商社の旦那と結婚。子宝にも恵まれ、私の人生は順風満帆だと信じて疑わなかった。でも、それは大きな勘違いだった。駐妻になっても国によってヒエラルキーがあるなんて、親も先生も人事も教えてくれなかった。ハードシップ手当てなんかいらないから、NYかロンドンに住ませて欲しい。


 「NYで同期と久々ランチ🍛物価高すぎて早くメキシコに帰りたい🇲🇽」エミと別れ、インスタに投稿。空虚なやりとりの末に生まれる、死んだ感情の残骸をご飯の写真と共に張り付ける作業も疲れた。「次の人事、ブラジルに横移動っぽい!」ケンヤからLINE。そっか、単身赴任頑張って。私は東京で頑張ろう(完

君たちこんな低俗なTwitter小説読んでる暇あったらブルーピリオド最新刊読んで己の内なる創作意欲と向き合え。若者はとにかく手を動かせ。おじさんはもう手遅れだから、僕と一緒にインターネットでキャッキャウフフしてれば良いんじゃないですかね。


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「日本的経営」に対するドラッカーの評価

 ドラッカーの「マネジメント」、確かエッセンシャル版だったと思うけど、日本型経営で面白い指摘が有った。


 欧米企業はトップの決断が速く、すぐに契約に至れる。ところが日本企業はなかなか契約に至らず、イライラするという。いろんな部局の人間が話を聞きに来、「持ち帰って検討します」ばかり。


 それも、一度で済まず、違う部局の人間が一から話を聞きたがるので、何度も説明しなきゃいけない。なかなか契約に至らない中、一通りの部局が話を聞いた後、ようやく社長がお出ましになり、契約。ともかく契約までに時間がかかる。これがいわゆる「決断が遅い」という話。


 ところが。ドラッカーは意外な評価を与えている。確かに契約に至るまではどえらく時間がかかるのだけど、各部署の疑問が全部解けているので迷いがなく、企業全体が有機的に動き、不測の事態も織り込んでいるので臨機応変に問題に対処でき、納期を確実に守る仕事の速さ、確実さがあるという。


 他方、トップダウンで決める企業の場合、確かに決断は速いのだけど、決められてから各部署への説明がなされるから「え?この問題が起きたらどうすんの?」という疑問も差し挟めないまま事業がスタート、案の定、現場がアタフタしながらやってるものだからトラブル続出、仕事が遅々として進まない。


 決断の速さは事業遂行の速さとは限らない。日本企業は決断こそ遅いが、組織全体に認識が共有されてから動いているから、事業が確実に進められるという。ドラッカーは、この点、日本企業に見習うべきところがある、としている。


 だがしかし。小泉ブーム以降、強いリーダーシップとやらが大流行、海外企業は決断が早い、日本は遅いと批判が続き、日本も決断を速める改革が進められた。その結果、組織全体で緻密に詰め、有機的に動け、臨機応変にも問題に対応できる柔軟さが失われた。欧米企業の劣化版になってしまった。


 日本の社長は、昔は現場の意見をよく聞き、仕事を進めやすいように配慮した。現場は社長の期待に応えるため、あらゆる問題を考えつくし、確実にやり遂げるよう、各部署とも綿密に協議して計画し、有機的に動けるようにしていた。
しかし今の日本の経営者は、現場の声を「抵抗勢力」とでも思うのか。


 海外企業のトップダウンをマネし、現場に丸投げ。現場は「無茶や!」となり、大混乱。海外企業の悪しきマネジメントを真似た感がある。もし、決断が速く、現場を混乱させないようにするには、社長が現場と密に連携し、現場をよく知る必要がある。


 どうも2000年代に入ってからの日本の経営者は、現場からの声に耳を傾けず、ただ命令だけすればよい、という独裁的なやり方をする人が増えた気がする。しかしそれでは現場がついていかない。まるで、五感からの情報を遮断した脳のようなもの。五感の情報なしに体をうまく動かせるはずがない。


 組織を有機体で捉える必要がある。ドラッカーの見識を踏まえれば、「決断の速いカッコいいリーダー」は、本当にカッコいいのだろうか?独裁的システムを完全に構築したとき、リーダーには、心地よい情報しか届けなくなる部下ばかりになる。裸の王様になる。独裁は、裸の王様を目指す道。


 部下の、現場の力を引き出すリーダーこそカッコいいのでは。部下や現場の言うことを聞かず、疲弊させるリーダーのどこがカッコいいのだろう?もう少しよく考えた方がよいように思う。

メガバンの春


 「複数ポジションで採用中です!」みんな笑っていた。ラウンドAで小銭みたいな5,000万を集めたきりサービスが停滞しているのは誰の目にも明らかで、威勢のいい採用の話は社員が続々と辞めていることの裏返しだとみんな知っていた。みんな笑っていた。メガバンを辞めたあいつの起業をみんな笑っていた。


 最初からあいつが気に食わなかった。地方出身。三河安城あたりの公立高校から名古屋大へ。 旧帝大早慶よりも価値があると思ってるらしかった。UFJの説明会で隣の席になった。「金融とは会社のパートナーであり、ぜひその経験を踏まえて起業したいと考えているのですが…」失笑。人事も笑っていた。


 学生起業ブームの時代だった。確か学部の同期でAO入試で入ったやつがAO入試専門の塾を立ち上げたりしていた。どこかの会社に会社を売って、日吉の東急の駐車場にBMWを停めているやつもいると聞いた。バイアウト。イグジット。無機質な言葉に思えた。テニサーで酒を飲み吐きまた飲むだけの日々。


 UFJを受けた理由は三つで、父親が三井の信託にいて金融になんとなく親しみがあったのと、サークルの先輩がUFJに入ってそこそこいい暮らしをしていたのと、何となく安定してそうだったから。仕事なんてどうでもいいと思っていた。実際どうでもよかった。仕事を通じた自己実現なんてクソだと思った。


 武蔵小山あたりに生まれて、おじいちゃんが買ったマンションの4階の部屋で育ち、父親と同じ攻玉社に入って、一橋大学は落ちて、一浪してもダメで、曖昧に入った慶應商学部ほとテニスサークルで精神がふやけて、曖昧に過ごす日吉の日々。人生はこの曖昧な日々の延長線上に曖昧に続くと思っていた。


 「焦り」というものが理解できなかった。いざ無職になっても住む家がある。帰る家がある。食卓には専業主婦のお母さんが作る僕の好きな豚肉のピカタが並ぶだろう。MOROHAを聴いても何も思わなかった。長野県出身だと聞いて納得した。彼らと違って、僕たち東京の人間には焦って生きる必要がないのだ。


 だから、大企業の説明会で起業について語るあいつのことが全く理解できなかった。品がないと思った。お金なのか自己実現なのか知らないが、何にせよ欲望は心にしまっておくのが正しいと思っていた。事実、就活もそれでうまくいった。大学名を書いて、きれいな言葉を並べれば、それだけで面接は通った。


 UFJの内定式にあいつがいて驚いた。向こうは僕のことを覚えていた。「UFJらしくない人が必要だって言われてさ(笑)」らしくない人はすぐにキックアウトされるとサークルで何度も見てきた。この街はそういう街だ。正しいドレスコードが必要で、そうでない人はこだまに乗って地元に帰るしかない。


 彼の行く末をなんとなく予感して、なんとなく安心した。事実そうなった。同じ支店になった。僕が同じ大学のチューターに可愛がられて卒なく法人営業業務をこなす中、あいつはいつも空回りしていた。無能なのに声ばかり大きかった。大口顧客を怒らせて支店に電話が来た。支店長が謝りに行った。


 「UFJらしい人間になりたくない」あいつはいつも言っていた。人事に言われたその言葉。ロクに現場に出たこともない新卒人事の言葉。そんなものが核になる人生はクソだと思った。その程度の人間のその程度の人生。あいつじゃなくてよかったと思った。東京に生まれてよかったと思った。


 ある日突然あいつは銀行を辞めた。長年温めていた事業のアイデアが遂にまとまったらしかった。「法人口座開設は、ぜひ弊行で…」支店長の乾いたジョークと乾いた笑いが白い天井に染み込んだ。花束を抱えたあいつは、HR業界のスティーブ・ジョブズになりたいと言った。拍手するみんなの顔は真顔だった。


 「Wakatteが実現したいのは、学生と若手社員をなめらかにつなぐ社会。互いにわかりあい、思いつながる社会。」長々とした起業note。3いいね。要するにOB訪問のマッチングサービスらしかった。名前が最高にダサいなと思った。事業リスクは山ほど浮かぶのに、マネタイズポイントは全く浮かばなかった。


 「起業しろ」の会社の人が5,000万も突っ込んだのは驚いた。スカイランドのオフィスでドヤ顔で肩を組むあいつの写真が載ったPRTIMES 。「代表の熱い思いに共感し、ぜひ並走したいという木下の個人的な思い」。黒いスーツを捨て、ユニクロのピチピチの白いTシャツを着たあいつの満面の笑顔。


 立派なホームページができた。ツイッターも次第に伸びた。awabarで次第に顔を広げているらしかった。あいつはいつもMOROHAを聴いていた。成り上がることのスタート地点はジメジメした最下層の土の床。そんなとこにはいたくないと思った。実家のマンションの赤茶色い上品なフローリングを思い出した。


 彼にとって最悪の事態が起きたのはその年の春だった。どこかの商社の男が、webサービスを通じて知り合った女子大生に乱暴して逮捕された事件が全国ニュースでも報じられた。その「webサービス」が彼のサービスだとDJアサダアキラがすぐに探り当て、代表の立派な起業noteのスクショとともに拡散した。


 ハサミや包丁に罪がないように、サービスではなく利用者にこそ罪があるという真っ当な議論が出る一方、彼のサービスを引き続き利用しようという企業や大学はいなかった。彼はサービスを閉じ、別の名前のベンチャー転職サービスを始めた。また立派なnoteを書いた。拡散はされても利用者はいなかった。


 「複数ポジションで採用中です!」みんな笑っていた。学生インターンすら寄り付かない彼の会社にはPdMもエンジニアもいなかった。人がいないしサービスもない。彼が芝浦の地の果ての狭小1Kに住み、特売のお米にのりたまをかけて食っていれば資金はショートしない。彼の起業家人生は曖昧に続いていた。


 その間、僕は天下のメガバン行員として悠々と暮らしていた。丸の内エリートサラリーマン。セキュリティカード下げて歩く仲通り。石畳鳴らすリーガル。シックだが生地のいいロロピアーナのスーツ。最近は副業と称してツイッターで有料noteを売ったりしている。ギンギンってアカウント知ってる?


 Tinderの女の子と表参道で飲んで、持ち帰りに失敗して、何となく一人で乗ったタクシーで最新のiPhoneに通知。あいつのnote。すぐに読む。苦境。鬱病。VCの圧。仄めかす自殺。破綻した文体。翌朝には消えていた。サービスはサーバーエラーか何かで見れなくなっていた。みんな触れなかった。


 そのnoteで初めてあいつの人生を知った。脱サラして事業を始めて失敗したお父さん。苦しい暮らし。新幹線の線路沿いのうるさくて狭いアパートの1階。ゴキブリやネズミの死体。炊飯器三日目の黄色いごはん。黄色いのりたま。業務用スーパーの黄色いパスタ。貰い物の黄色いみかん。食べすぎた黄色い手。


 いなくなったお父さん。ピアゴで働くお母さん。苦しい暮らし。公立から公立へ。バイト漬けの暮らし。ツテもなくロクに助けてくれない学事の就職課。トヨタにも行けない哀れな文系。突如としてニュースに現れたホリエモン家入一真の本を図書館で読んだ。やるべきサービスはすぐに決まった。


 今年で30歳になります。仲通りもすっかり春です。休みの日だけど、何となく仲通りに来て、ガーブのテラス席でコーヒーを飲んでいます。ラルディーニのジャケットの肩に小さい蝿が止まったので指で弾いてやりました。それ以外は気持ちのいい、本当にすばらしく気持ちのいい春の週末です。


 あの夜、酔ってこう、少し意地悪な気持ちになって、あいつのnote、全部スクショ撮ったんです。見ますか?笑えますよ。人間ってこうやっておかしくなっていくんだ、という、最高の見本のような気がします。やり遂げる能力のない人間が踏み外すとこうなるんだと、いつも自戒を込めて読み返します。


 最近、結構稼げてるんですよ。泥舟だと後ろ指さされるメガバンも乗ってみれば案外気持ちのいいもので、年収1,000万近く貰えてます。noteも結構売れるんですよ。毎月お寿司を食べに行けるくらいは儲かってます。でも冷静でいます。あくまでも「成功している銀行員」だから売れているんだと思ってます。


 最近気づいたんですけど、僕あまり仕事ができないんです。若手と言われる年齢をとうに過ぎ、同期全員手を繋いで「年功序列」という四文字の上をなぞるように走っていたはずが、僕より給料のいい同期がいたりとか、あと昇進も早い同期がいたり。焦っている同期もいます。でも不思議と焦りはないんです。

あるロシア体験たち・メモ

 学生時代、ロシアひとり旅してて夜ホテルのロビーでのんびりしてたらおっちゃんが隣りに座ってウォトカ買わねーかって値段聞いたら1本3,000ドルって言うんだよね。高いって言ってたら結局500円(日本円)でいいってなって、じゃあ買うわって言ったら、そのおっちゃん

「よし、俺とお前はもう友達だから一緒に飲もうぜ」

って俺が買ったボトル開け始めて「おいおい」と言う間もなくおっちゃんフロントのおばちゃんにグラス頼みに行ったらおばちゃんグラス3つ持ってきて「なんで3つ?」って思ったらそのおばちゃんも一緒に飲みだして、おばちゃん途中で何か思い出したかのようにフロントの奥に戻って流石に仕事中はまずいと思ったのかと思いきやチーズやらサラミ持って戻ってきて、かなり盛り上がってしまったんだよね。そのおっちゃん元は海軍の潜水艦乗りでハワイ沖まで行ったって言ってた。


 そのうちもう1人おっちゃんやってきて、俺のこと何やら紹介されて、そのおっちゃんも加わって4人で飲み会になって、ウォトカも回っていい感じになってたところに日本人の新聞記者だと名乗るおっちゃんがやってきて、俺にも英語で話しかけて来るんだけど「俺日本人です」って言ったら記者のおっちゃん何故かぶったまげて「ロシア人かと思ったわ、この人と親子かなって」ってあとから来たおっちゃんと俺を交互に指差しながら言うんですよ。確かに似てるっちゃ似てたかもしんない。スラブじゃなくてツングース系っていうんだろか。ロシア人達大爆笑で「お前も入れお前も入れ」ってそれ俺が買ったウォトカなんだけど、5人で飲み会になってひと瓶空いたら元潜水艦乗りが「じゃー今度はお前が買え」って記者さんにやっぱり3,000ドルからふっかけてて「いやいや500円だろ!」って慌ててつっこんだら「黙ってろバカw」みたいになって記者さんが買った2本目飲んでる間に記者さん潰れちゃって、


 そうこうしてる間に今度はマフィアのおっちゃんがムキムキのボディーガードあんちゃん2人と若くて綺麗なお姉ちゃん5、6人連れて歩いてきて「1晩100ドルか1万円」と言い出して「そんな大金持ってない」って答えたら「お前は中国人か」って聞くから「日本人だ」と言ってやったら「アンビリーバボー。日本人がお金持ってないわけないだろ」とかバカにしてきて「ホントだわ大学生で金無えんだよ」って言ったら隣にいたお姉ちゃんの腕掴んで「プレゼントフォーユーww」とか笑いながら言いやがるから今度は俺が「アンビリーバボーwww」って返してやったらみんな笑いながら俺に手を振って立ち去った。


 で、それを見てた潜水艦野郎じゃない方の俺のオヤジと間違われたおっちゃんが「お前明日の朝ここにいろ。日本に持ってく土産持ってくっから」と言ってその飲み会はお開きになって、次の日の朝、まだ二日酔いの状態でロビーで待ってたら、昨日のおっちゃんがやって来て俺にキャビアの丸い缶2つくれてね、「実は俺はキャビア加工の会社の社長やってる。お前これ日本に持って帰って食え」と。これは帰国して白いご飯に乗っけて食べたらめちゃくちゃ美味かった。


 まあ、こんな話を長々として何が言いたかったかというと、国として、政権として、今のロシアは悪の枢軸の如く言われてるけど、人間対人間だとみんなめちゃくちゃテキトーで面白い人たちだったなってこと。帰国して後で調べたらそのホテルは極東マフィアの本丸みたいなとこでかなりウケた。日本人の新聞記者さんは酔いつぶれる前に俺に名刺くれて「お前日本に戻ったら俺ん家遊びに来い」って言ってくれてたので、次の旅の途中に連絡してホントにお邪魔して奥さんのお料理ご馳走になって5歳くらいのガキんちょと遊んで泊めてもらった。県知事以下のロシア極東視察に同行取材した青森東奥日報の記者さんだった。翌朝青森駅まで車で送ってもらって、教えてもらった不老不死温泉に行った。みんな懐かしいな。

 ロシアではその後バザールで財布とパスポートスられたのに気づいて走って追いかけてすったもんだの末になんとか取り戻して空腹で力尽きてしゃがみこんでたら、一部始終を見てた学生グループが俺を取り囲むように顔を覗き込んできて「大丈夫か?」「腹減ったのか?」と心配してくれて、バザールでシシカバブみたいな串肉と青島ビール買ってきてくれたんだよね。あの中にいた女子めちゃくちゃ可愛かったな。


 で、金もない何も無いけど何かお礼をしなければと思ってザックの中探してもこれといったものが無くて、「なんとか温泉」って入ったタオルあげたらめちゃくちゃ喜んでくれたw


 あの当時、新潟港辺りから積んで帰った日本の中古車がめちゃくちゃ人気で、「なんとか自動車学校」って入ってる普通車とか「なんとか観光温泉」って入ってるマイクロバスとかかなり走ってたんだよね。日本の中古車が人気ってデザインごとの話だったのかよwって思った。なのでもしやと思った日本語入りタオルもめちゃくちゃ喜んでもらえたww


 あの学生さん達は自分と同い年ぐらいだった。自分の国が今戦争してるって中でみんなどんな暮らしをしてるのかな。皆さんのおかげで俺は無事日本に帰ってこれて、今も生きてますよー。

 学生時代のひとり旅のハバロフスクだったかウラジオストクだったか、公園のベンチで腹減ってボーッとしてたら小6ぐらいの男の子が1人でサッカーボール蹴って遊んでたから立ち上がって「へいこっち!」みたいな感じで伝えたらパス出してくれたんだよね。それからしばらく2人でボール蹴って遊んでた。


 その子のお母さん、というより見た感じお婆さんが迎えに来て、帰って行く前に少し話をした。あの頃は英語でコミュニケーション取れるのは英語教育が始まってた小学生かマフィアぐらいだった。男の子の家族はあの原発の事故の後にウクライナから来たって言ってた。あんまり友達もいないと。


 サッカーしてくれてありがとう、日本にも行ってみたいなと言って帰っていった。あいつ生きてたら今はもういいおっさんかな。もう顔も覚えていないけれど。

そんなことをふと思い出した。

モーリー的憂国ガイジン身ぶり

*1

 私、今日は寝て起きてずっとウクライナを見続け、考え続けてからまったく関係ない大型バラエティー番組の収録に行ったんです。そうしたら全然使ったことのない脳の部分を全開させ、それでもプロの芸人さんたちに追いつけず、テンパって真っ白になり、楽屋に戻った頃にはウクライナを完全に忘れてた。


 「Oblast」とか「humanitarian corridor」とか「戦術核・戦略核」みたいな用語しか目にしない2週間を経て、今夜あたり最大級の犠牲がウクライナで起こり、NATOはロシアとの直接の戦闘状態を忌避して「No-fly Zone」を設置できないんだ…と歴史を傍観・傍受するサイクルから一点、お笑いへ。


 アメリカのコメディー(日本のお笑いに相当)はリアルタイムでロシアのウクライナ侵略の本質に向き合い、難民が白人ならすぐさま支援するのに中東や北アフリカからの難民は排除してきた欧米のあり方を鋭くえぐります。


Trevor Noah Calls Out Media Racism with Ukraine War
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 一方日本のお笑いには権力、資本、社会の主流にとって不都合がないユーモアに終始する傾向が見受けられ、大手事務所、大手メディア、大手スポンサーがスクラムを組み、さらに政治と癒着・結託する大政翼賛の構造が見受けられます。「お笑いと政治や社会問題は切り離してなんぼ」という価値観や美意識もあります。コメディアンが政治や社会に直接働きかけるようなパフォーマンスをすることは一般社会では煙たがられる傾向もあります。しかしコメディアン出身の大統領が命がけで国を侵略から守っているウクライナを見ると「お笑いウォッシュ」になかなか乗れないのです。スポーツウォッシュ同様。


 つまり考え方によっては日本のお笑い産業の主軸はどっちかというと中国やロシアの統制されたメディアの中で許容されている「笑い」と似た生態系の中でエンタメを提供しているようにも見える。もっとも、「日本の大物コメディアンが国家による国民の洗脳に積極的に加担している」と主張しているのではありません。そもそも日本のお笑いを職業としている人たちの技能は間近で見ると天才的です。自分が持っているスキルセットと惑星一個分ほど違い、尊敬しか覚えません。と同時にその表現形態は、政治や社会問題を議論するのとはまったく違う空間、いわば「野暮な話」を回避したテーマパーク空間に存在している。もしかすると江戸時代やその前にさかのぼって芸能が厳しく統制・抑圧されていた時代にお上や権力者をすれすれでからかう姿勢が暗号のように満載された形で表向きは当たり障りのない芸風が培われ、その様式が受け継がれて何世代も変異・進化をとげてきたのかもしれません。


 仮に日本のお笑いに欧米で一般的になっているウィットの概念をそのまま投影したとします。二言目に「安倍総理」「沖縄の基地」「原発」「差別」「外国人の権利」「多様性」が吹き出すコメディーなんてよほどうまくやらなければ聞きづらいポリコレの羅列に陥ってしまうでしょうし、そもそもお金を払って聞いてくれているお客さんを不愉快な気分にさせてどうするんだ、という視点も成り立ちます。一方で「見たくないもの」「危ないもの」への興味や好奇心をそそりたて、通常の会話や議論ではなかなか向き合えない感情を誘い出してカタルシスを提供するのが笑いの使命だとする考え方もあります。


  <さあ、あなたは日本式、欧米式、どっちで笑う?>


というのが両論併記の無難な逃げ方。しかし私は両論併記をしたくない。


 私の今日の発見は「絶望的なウクライナ戦争から目を背け、自分自身が日々の消費行動や無関心からこの大惨事を引き起こす当事者となってしまっていたことを忘れさせてくれるエンターテインメントは実に気持ち良いし、ものの30分でそこに埋没できたこと」でした。麻薬を一口だけ味わったような。
 

 日本の政治色がないウォッシュなエンタメもスポーツも見始めると止まらないほどおもしろい。瞬間瞬間が濃厚で、なんならコマーシャルも金がかかっていて目を離せない。瞬きすらしたくなくなる。ウルトラ・ファストフードというか大衆のアヘンというか、楽しくなっちゃう。


 NetflixのダークなSFコメディーもすごくいいし、作品性も高い。けどそれとも違う分厚い瞬間風速を日本のエンタメは与えてくれる。こんなおもしろいものが流れ続けているのにわざわざテレビを切ってNATOが手をこまねいている間にロシア軍がNovopskovで市民に発砲した瞬間の映像を見に行ってその動画が別件の動画を混入したガセではないことをBelling Catなどを巡回して調べに行って、結果やっぱり本当にウクライナ人が撃たれた映像であることを確認できたとしてその人を今いるところからどうやって助けたらいいんだという無力感に打ちひしがれるなんて、する人はいるんだろうか?


 これまでの日本の報道は政府が中国・ロシアに最大限に配慮・遠慮している姿勢に追随するように、すぐ近くにまで火の手が迫っていても「なんだか煙の匂いがしていますね」程度の婉曲表現に終始し、問題の本質を直視することを避けてきたのだと思います。お笑いとエンタメはそのメディアの構造に組み込まれた結果、はからずも「危機感を持たず、ささやかな幸せと安定を追いかける日常」の継続を補助する機関になったとも言えるのではないだろうか?平時にはそのシームレスなスクラムがむしろ心地良い。ワーキングプアになり行く人もコンビニのレジの画面に映るタレント、芸人、アイドルの皆さんにARのお友達のようなマイルド親近感を抱きつつ、日常が日常であることを確認できた。


 で、問題は有事になった時、あるいは有事になりゆく今なのですが、実は核兵器の使用が「絶対に起きないこと」ではなくなったんですね。数日前から。昨日は稼働中の原発に対してロシア軍が砲撃し、チェルノブイリ事故の何倍にも及ぶ原発災害が意図的に引き起こされるリスクを世界は味わっていたんです。その後メルトダウンは起きないと専門家が判断し、ロシア政府はウクライナ側が仕掛けた自作自演だとプロパガンダを流し、情報がごっちゃになっています。ただ、ファミチキM-1の間に「核」という用語がスクリーンを横切り、日常が壊れているんです。落としてしまったスマホの画面のようにひび割れがあちこちに徐々に広がり、気がついたら血だらけの金メダル、血だらけのLNG、血だらけのエブリシングがスマホ画面、テレビのブラウン管いっぱいに広がろうとしている。 核。


 個人的な意見ですが、私は核戦争は起きないほうがいいなって思っています。広島で育ち、父がABCCに勤務していたことや、親族が被爆した同級生や友達と一緒に暮らしていたことも大きな要因です。広島平和記念資料館アメリカの自分のバンドメンバーを連れて行ったこともあります。


 核のボタンを押せる独裁者が今、世界を脅している。本当は何段階かの暗号認証と二人の人間が同時に鍵を回すとかを経るのかもしれませんが、まあだいたいそんな感じ。プーチンが世界を人質にとって、どんな人道災害をともなっても自分のわがままを通そうとしているように見えます。巨人化した金正恩


 そのボタンを押すなんて馬鹿なことをいくら独裁者でもしないだろうと思う反面、偶発的なエスカレーションの可能性も排除できず、加えて追い詰められたプーチンが己の栄光のために自身の命と百万人単位の命を生贄にするシナリオが、数日前からくっきり想像できるようになりました。


 今、誰が私を笑わせてくれるのだろう?こんな世界にまだ希望がある。だからこそ絶望を見つめ、絶望する自分を笑ってもいい。できることはまだある。ウクライナの人々を直接、間接に助けるすべはある。知って、感じ取って、伝え合い、話し合って、できることからする。そう思わせてくれる笑いがほしい。


 もしも核戦争で死ぬのなら最後の一瞬までおしゃれに、愛して、芸術的に、助け合って、生にしっかりつかまっていたいな。いい音楽が聴きたいな。そして嘘がないのがいいな。最後の瞬間まで人間の中に強さは残っているし、自分も世界も変えられるのが真実だと思う。ウクライナを守ることは私達にできる。


 だから私はいろいろな麻薬の味を知り、自分の恐怖や苦痛からいっとき逃れる手段を持ちながらも、やはりウクライナがどうなっているのかを知るためにまたスクリーンの前に戻ってくるんだと思う。それは、私がSF映画のかっこいいヒーローであるから。あなたもそうかもしれません。

*1:この名作が彫られてから、ざっと20年以上たっていると思うのだが、未だにこれ一発で「批評」が大方片づいてしまうという、時空を超えて「中身のない」実例。