宮本常一、「日本文化」その他・雑感

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 宮本常一、というのは、近年脚光を浴びている名前である。

 特に、民俗学とその周辺ではほとんど唯一と言っていいほど、有名な固有名詞になっている。それは、かつての柳田國男ブームに見られたような民俗学とその周辺への熱い視線がとっくになくなっている状況だからこそ、かえって眼につくようなものになっている。

 佐野真一の仕事などが、そのきっかけになったのは間違いない。「歩く巨人」というタイトル自体、ある種のミスリードを招く、と言うのが言い過ぎならば、少なくとも既存の民俗学、いや、民俗学「者」のイメージをうまく引き取りながら再び脚光を浴びる場所に導いてゆくためのコピーライティングとして、絶妙なものだった、良くも悪くも。

 宮本常一の評価については、そういう状況だからこそなおのこと、微妙な困難がつきまとう。その困難さをうまく同時代に伝えることそのものがあらかじめ困難であったりすることも含めて、幾重にも重層した難儀の中にある。

 「フィールドワーク」の達人、日本全国をくまなく「あるいた」巨人、といったもの言いは、柳田國男以来の、そして戦後の言語空間において「ジャーナリズム」や「ルポルタージュ」「ノンフィクション」などが増幅しながら引き受けていったキャラクターと重なってゆくものに他ならない。

 山口昌男が唱導したような意味での「民間学」、ただ垂直方向にスタックされ、「科学」「西欧」の力量任せに効率的、合理的にみるみる構築されてゆくような「知」の構造体の方向に、ではなく、それらが同時代に存在してしまっているという厳然たる事実を光源として、そこから照射されざるを得ないおのれの立ち位置を前向きにあきらめながら自覚したところから、初めて足場を確保してゆけるような、そんな言葉本来の意味での「オルタナティヴ」な「知」のありよう。ぐっと腰を下げ、重心を低く保ちながら、目線あくまで低く、身の丈の高さと角度とに維持しつつ、地走りのごとく、あるいは夏草の生い茂るごとく、水平方向に広がりをわがものにしてゆく作法。しかし、それらは共に同じ「近代」の情報環境において、相互性の裡に現前したものである。そのことをまず、静かに思い知ることからわがものにしておかないことには、この「民間」というもの言いは、容易に石化し、頽廃してゆく。

 「民間」にも位相がある。来歴がある。特に、「戦後」の言語空間の変遷に伴ってそのうねりの中で浮かんでは消えていったさまざまなもの言いの脈絡においてさえも。

 たとえば、かつて鶴見俊輔らが称揚した「民間学」というもの言いに、たとえば後に山口昌男が「歴史人類学」の語で込めようとした、そして「敗者」とあからさまに意味づけを施しさえしたニュアンスは、含まれてはいても決して中心に置かれていない。

 柳田國男の「海上の道」と、宮本常一の「日本文化の形成」の間には、二十年ほどの隔たりがある。考古学的知見の発達がある。

 「日本文化」を、「文化論」の脈絡で語ろうという欲望自体がもう、宿りにくくなっている。それは学問の継承というのもまた、同時代の情報環境と無関係であり得ないという、当たり前過ぎるほど当たり前のことを、しかしきちんと認識できる主体かどうかによって、解釈もまた変わってくる。どうしてある時期、あれほど「日本論」「日本人論」が「文化論」の脈絡で発熱してゆくことができていたのか。「文化の古層」とか「文化複合論」とか、もちろん「タテ社会の人間関係」に代表されるような心理主義的な色彩を加えた通俗文化論への回路の開き方も含めてのことだ。それはさらに言えば、血液型や占いといった通俗とも連なっていたはずだ。

 と共に、それはまた、意識の方向性としては、考古学などの周辺に蝟集してゆくものに思える。言い換えれば、「もの」の具体性を「科学」的な視線も含めて精査してゆこうという欲望の方向からでしか、それら「文化論」へと往くモティベーションが宿りにくくなっている、ということらしい。

 かつての大林太良、さらに岡正雄、といった人脈で共有されてきた、民「族」学的な「文化論」への志向。「基層文化」や「文化の重層性」や「古層」といった、ある種堆積系のもの言いがそこから繰り出されてきていた。それは「地層」のイメージから発された、その限りでそれは、当時の「考古学」の普及/通俗化と関わったところで起こっていた現象だった側面がある。

 「文化」をそのように「地層」のように堆積されてゆくものとして見る、その見方自体がどういう「知」の装置連関から生まれてきたのか、ということも興味深いのだが、ここでは深入りする準備がない。ただ、「地層」というイメージが、眼前に具体的に存在する地層から一般化してゆき、それが歴史的な時間軸と重ね合わされて解釈されてゆく方向に何か動かされていったこと、それをまず気に留めておきたい。

 それは、たとえば戦前、柳田がそれこそ「山人」に興味を深めていた頃の、彼の脳髄にイメージされていた同時代的な広がりも含めての「歴史」のあり方との距離や、晩年の彼が「日本人論」的な方向にどんどん傾いていったこととの連続不連続を確かめてゆくことにも、おそらくつながってゆく。「山人」を幻視していた頃の柳田が生きていた時代において、彼のまわりにあたりまえに語られていた「歴史」とは、どのようなイメージとして存在していたのか? 「山人」は、果たして「地層」的な歴史を前提にして立ち上がるようなものだったのか? とすれば、同じ頃、折口などと交わしていた「古代」というもの言いの内実は? 心意伝承だの、村人の内面だのといった方向にある究極の目的を設定するようになっていたことを考え合わせれば、前提とされていた装置はまず「心理」であり「精神」であり「意識」であり、いずれ人の内面でありそこに必ず「歴史」がはらまれている、という認識だったのではないか。

 「生活の古典」というもの言いも、そのような脈絡で改めて光を当ててみる必要があるらしい。日常の細部、立ち居振る舞いや習慣なども全部ひっくるめた現在=〈いま・ここ〉において、「古典」「古代」は平然と内包されている、という認識。それは、もしかしたら戦後に励起していったらしい「地層」的な方向での文化や歴史に対する理解のあり方とは、想像以上に異なる位相をはらんでいたような気がし始めている。

 単線的な歴史を考えるならば、民俗学の方法ではどう頑張っても中世までしかさかのぼれない、と柳田は明言していたはずだ。昭和初期においてすら、だ。同じような意味で、北海道では民俗学はできない、あるいは、東京生まれ(池田弥三郎だったか)の弟子に対して、君は町育ちだから民俗学は難しい、というようなことも口にしていたと記憶する。

 それは普通、「古い残存文化」を知らないから民俗学を手がけるのが難しい、といった解釈が施されてきていたはずである。田舎育ち、地方在住の者が優遇され、それは「優れた伝承者」といった制度的権威として固定化される一翼を担ったりもした。だからこそ、たとえば「都市民俗学」というもの言いの不自由も柳田信者の存在基盤から規定されていた部分すらあったと思う。だが、必要なのは、単なる「民俗」、収集可能な文化の一要素としての「古い残存文化」になじみがあるかないか、といった水準を超えて、「心理」や「精神」「内面」にはらまれている「古典」に感応できる資質をその人の生い立ちや生活背景から判断してどれくらい持っているかどうか、ということ、そしてさらに突き詰めてみるならば、柳田自身の自覚として最後まで持ち続けられていたはずのあの「国学」というリ手ざわりにもつながり得るような資質にまでまっすぐ垂鉛を下ろしてゆく作業、だったりするのだと思っている。

 それをたとえば、「カミ」を身近に感じることのできる資質、といった風にひとまず切り縮めてみたとして、それは柳田が考えていたような民俗学の全体性は永遠に現前化不可能のまま、それこそ浪漫主義的な装置の中で盤石の立ち位置を占めるだけで終わってしまうだろう。

 「カミ」、ではない。少なくとも「カミ」と言ってしまうことを、〈いま・ここ〉から民俗学を活きたものとして立ち上げることを志す立場からは、まず最初に禁欲しなければならない。

 単線的な、「地層」の比喩で解釈され回収されてしまうような「歴史」でもない。〈いま・ここ〉に、そこに生きる自分の「心理」「意識」「内面」に、間違いなく「古典」と呼びたくなるようなある痕跡が、ふと垣間見える、そんな微細な感覚に自覚的になること。そんな形で〈いま・ここ〉からゆっくりと掘り下げてゆくような「歴史」があり得るらしいこと。

 「地層」的なイメージを括弧にくくってみれば、「階層」「系統樹」的なイメージもまた、ある程度相対化してゆくことができるはずだ。要素と要素、断片と断片が単線的に連なってゆき、何か全体へ向かって伸びてゆく、といったイメージ。そういう仕掛けによってだけ「全体」「まるごと」を手もとに引き寄せることができる、という信心は、思えば相当に根深くわれわれの知性のあり方に関わっているらしい。

 

*1:『日本文化の形成』の書評だか何だかのためのメモ書きだったらしい。掲載原稿にはなっていなかったようなので、こちらにあげておく。