「言文一致」と情報環境、その他・メモ

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 大宅壮一富士正晴ら、三高人脈が「言文一致」を大阪弁でやり始めるのは相当に遅かったのではないか。

 漫才作家としての秋田實が、むしろ東京からの西下組で大阪弁のダイアローグに敏感に反応していたこと。その理由や背景など。

 「言文一致」と一様に言われるけれども、その「言」の依拠する話しことばは必ずしも方言でなかったこと。少なくとも、当初二葉亭四迷なりが刻苦した作業の前提にあったのは、言うまでもなく「江戸弁」としての、あるいはまた当時の彼らインテリ知識人予備軍たちの日常の話しことばであったはずで、まただからこそ速記を介した寄席の芸人たちの話しことばに刺激されながら、彼ら自身の「言文一致」を模索することもできたはずなのだ。

 インテリ知識人予備軍たち、少なくとも近代的な教育の内側で主体化していったようなありようの彼らにとっての「話しことば」の自明というのは、同時に彼らがそれぞれの生い立ちの中で、彼らの郷里や肉親らとの関係の中で育まれていたはずの「方言」としての話しことばとは明らかにズレていたはずだ。

 公式見解としての「言文一致」の言説に、そのような「方言」の位相がどのように隠され、あるいはまた無意識も含めて抑圧されていたのか。「書きことば」としての彼らの文字、文章の中に彼らの生身がおそらく宿していたような「方言」としての「話しことば」のありようはどのように反映させられていたのか、あるいはまた反映させられることから切断されていたのか。

 同じことは、おそらく例の「遠野物語」の成立過程においても言えるのではないだろうか。

 佐々木喜善にとっての「話しことば」は言うまでもなく「方言」であり、しかし彼は同時にすでに泉鏡花やその他当時の「文学」の文体を文章として「書きことば」として仰角の視線で見るようになっている。彼にとって「言文一致」というのがもしあり得たとするなら、まずその肉体化されていた「話しことば」を「そのまま」文字に文章にすることを考えて然るべきだろう。

 と同時に、佐々木にしても、もちろんそれより年長だった柳田にとってはなおのこと、漢文脈のリテラシーが「書きことば」の定型、そして権威として刷り込まれていたはずだ。

 「書きことば」というのは、まずそのように漢文脈のものである、という常識があり、その上に習い性としての読み書きがある程度まで肉体化習慣化されてあり、しかしそのような生身が「話しことば」の水準であらかじめインストールされているのは「方言」を前提としたある種全く別の言語環境だったりする。

 「方言」的身体を自明の前提として、しかし知的世界へアクセスしてゆくための条件として漢文脈の「書きことば」に習熟してゆかねばならないという環境で、しかし彼らが「言文一致」に気づき、自覚し、発見してゆく過程というのもまた、おそらくかなりの部分そのような漢文脈の「書きことば」を前提として知り、意味づけてゆくことのできたものだったりするはずで。

 「言文一致」という考え方自体が、どのような情報環境、どのような言語環境で「発見」され「認識」されていったのか、という問いは、話しことばと書きことばという単純な図式の上にもうひとつ、ある種異なるレイヤーとして「方言」≒ドメスティックな言語環境とその内側で形成されていった生身の主体がそれら図式とどのように関わっていったのか、という問いを可能にする仕掛けを作ってゆくことになる。

 「方言」的身体から、どのように「言文一致」は認識されていったのか。

 「言文一致」が明治後半にすでに具体的な試みとして発動されていったにも関わらず、そのような「言文一致」を構想し作業として行っていった者たちの生身の多くが依拠していたはずの「方言」を、その「書きことば」の側に反映させてゆくという試みは、そのような試みを可能にする意識のありよう自体と共に、相当に遅くなっていたと言わざるを得ないのはなぜか。

 大阪弁、が話しことばとして「言文一致」的な枠組みと文脈とにおいて現前化していったのはいつ頃、どのような場においてだったのか。あるいは、他の「方言」においても、また。

 陸軍が長州弁、警察その他が薩摩弁の影響のもとに、それら職業世間での「話しことば」として成り立ってきていることはすでに指摘されているけれども、そのような限定的な脈絡で限られた職業世間での「書き言葉」≒書類の書式などにおいて結果的に「方言」の痕跡が記されてゆくことはあり得るかも知れない。

 「漫才」の成立、特にその「書き言葉」という前提からの「台本」の必要を介して、初めて大阪弁は「書き言葉」の水準に自覚的に現れたということになるのだろうか。

 俗に「会話」「ダイアローグ」の発見ということが言われる。確かに「漫才」に関してはそのような「会話」、それも都会のホワイトカラーの立ち話、という体の「話しことば」があらかじめ「台本」としてしつらえられる、それが大きな契機になっていたことは言うまでもない。

 そのような発見を後押ししたのが「ラジオ」というメディアだったこともまた、言われている。耳から入る話しことばは、それまで日常に当たり前に、自明のものとしてしか存在してなかったそれら「話しことば」を、改めて意識化し対象化することを、大衆的規模での経験として準備することになったはずだ。まして、それは機械を介して入り込んでくるという、ある種複製文化体験としての意味もはらんでいた。初期のラジオの不鮮明は指摘されるが、それでも見慣れぬ箱を介して話しことばが、まずはモノローグとして、そして後にはダイアローグとして流れ出してくることで、自分たちが日常それと意識もしないで使い回していた話しことばというもの、それらが「関係」をつむいでいるという機能までも含めて改めて意識の水準に照射されてきてしまう。

 このような自分たちは話している、会話をしている、日々「話しことば」を駆使している、ということの発見。たとえば、テープレコーダーに初めて自分の声を吹き込んだものを聴かされた時のような、日常がそれまでと全く違った位相で見えるような感覚が、おそらくはラジオを介した話しことばに接した時にはあったと思われる。

 もちろん、初期のラジオにおいてダイアローグは乗ってこなかった。「演説」に近い、むしろそのような形式と定型に沿ったひとり語りとしての「話しことば」でしかなかったという意味では、書き言葉的な「公」的性格を伴った話しことばでしかなかったと言えるかも知れない。

 浪曲の「声」の問題もこのような脈絡で補助線を引いて初めて、ありがちなジャーゴン操作の水準を超えたものになり得る。「声」はそれ自体、レコードを介してまず複製されたものとして存在するようになり、その響きが生の現場の上演にも折り返され新たな意味づけがされてゆく。雲右衛門が「七色の声」と評されたその評言は、もちろん生の上演に接した記者らによるものだったわけだが、しかしその「声」自体はすでにレコードに複製され、機械を介した別の上演の場にも響いてゆくようなものになっていた。

 ある種つくりものとしての、人工的な造形物としての「声」という意味が、類い希な息の長さや声質の多様さなどといったものと共に裏付けられてゆく。それまでなら「芸」であり、良くも悪くもそのようなもの言いを介してしか評することをせず、できもしなかったような質の水準が、レコードという複製技術を介して流通してゆくことが同じ時代の情報環境に併存してゆくことで、「芸」という評価のパラダイムにもまた何らかの影響が与えられてゆく。

 付言すると、この時期まだいわゆるPA装置、生の上演の現場に設置される増幅拡声装置は出現していない。電気的な増幅拡声が劇場その他に設置されてゆくのはもっと後、昭和初期あたりにならないと一般的ではないのではないだろうか。

 けれども、そのような増幅拡声装置の出現よりも先に、劇場その他の上演空間自体が拡大していったらしい。そのような空間の拡大に対応すべく、生身の側がそれまでよりも無理な負荷をかけることを強いられ、またそのような無理な負荷をかけられた生身を介した「声」が新たな意味を伴って聴衆観客の側に放散されてゆくという回路が生まれ始める。

 天井板に舞台の側から観客席の奥に向かって針金やピアノ線を複数張り巡らし、それらが振動共鳴することである程度の増幅拡声効果が得られた、という証言を先代の浦太郎師からだったと思うが、実際に聞いている。1,000人程度までは生身を介した「声」で「場」を巻き込んでゆくような質の「芸」が求められるようになってゆく過程。「量」という現実が生身の等身大の芸人たちの側に浸潤を開始し、それに見合って彼らもまた自らの生身に負荷をかけ、その浸潤に対抗しようとしてゆくことで、既存の「芸」のありようも変わってゆく。それに伴い評言の水準も、また。

 演説というモノローグの定型が最初にラジオから流されていった。それがどのようにダイアローグへと開かれ始めていったのか。

 活動写真の弁士たちのモノローグのありようなどが、同時代の情報環境においてまた切実な役割を果たしていったらしい。

 くらがりから「声」だけが響くという空間は、実はラジオやレコードなどを介した「声」の上演と基本的に同じような体験を聴き手に強いてくる。「声」だけが響くがゆえに、その声の意味もまた、話しことばの意味としての伝達のみならず、声そのものの質や調子、抑揚なども含めた「音声」としての質が強調されて聴き手の耳に届き、意味づけられてゆく。

 はるか後、今日の「声豚」と揶揄されるような、過剰に耳が敏感になった、その敏感さに引きずられて生身の統合の内側でのある種の感覚や官能すらもバラバラにうごめき始めるようにもなったらしい末裔たちとのつながりにおいて、それら活動弁士たちの提供していた経験の歴史的文化的意味は、「民俗」の水準と共に改めて光が当てられるべきだろう。

 活動弁士に追っかけまでがついていた、というのは、無声映画がその「映像」としての魅力だけで人々を魅了していたわけではないということだ。

 いや、もう少し正確に言えば、その「魅力」の内実に相当程度に「映像」のみならず、彼ら弁士の「語り」が複合して作用していたらしいことをこそ、立ち止まって考えねばならない。

 「映像」としてのシャシンの魅力と同時に、それらをどの弁士の「語り」を介して観るのか、というのが重要になっていたことは、夢声らの証言からも読み取れる。つまり、視覚的な情報としての「映像」はそれ自体同じであっても、その意味づけを「話しことば」≒「演説的モノローグ」を介して「説明」してくる弁士の「語り」があって初めて、意味ある映像として「わかる」ことができるようになっていたということなのだ。特に輸入ものの外国のフィルムは「映像」自体の衝撃力だけでなく、ある程度ストーリーを介した「おはなし」として設定されようになってくると、その「おはなし」を「わかる」ためにはある種の翻訳が必要になってくる。映像として文字が織り込まれてあるのは無声映画のお約束だけれども、それらをその場で読み取るリテラシーは観客のほとんどにはないわけで、それらを「話しことば」を介して意味づけをガイドしてゆく、それこそが「説明」というもの言いで新たに出現したモノローグの水準だった。

 それはそれまでの「演説」と地続きの部分を含みながら、しかしそれとはまた別の「話しことば」の可能性を気付かせることになっていった。

 眼と耳、それぞれの感覚器官としての特性に気づいてゆく過程が、近代の情報環境の展開と整備につれて国民的経験としてあり得たのだろう。田山花袋でさえも、明治期の座敷の夜の暗さ、灯りのおぼつかなさとからめながら、眼を介した映像的な官能とは別に、鼻を介した官能もあり得たことを回想的に語っていたりする。

 眼が突出して開かれてゆく、その経験から逆算してそれ以前の、眼が未だその他の感覚器官と相対的に横並びでいた時代の官能。むしろ耳の優越、とでも言うべきある種の統合が、近世の同胞の最大公約数として成し遂げられていたらしいことは、渡辺京二の「逝きし世の面影」などからも容易にうかがうことができる。

 耳敏い、というもの言い。眼敏い、と比べてどう印象が異なっていたのか。

*1:走り書き程度のメモでしかないけれども、その後の枝葉の繁り具合につながるものもいくらも含まれていることでもあり、備忘として……190415