刺青と「あの世」の通底・メモ

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 入れ墨、文身にしても、それを「背負う」際にどのような意匠を選ぶのか。単に強そうだから、脅しが効きそうだからといった理由だけでそれらが選ばれていたと考えるのは、貧しい発想だろう。

 文字を使うか、絵柄にするか。しかしこれは「文字」と「それ以外」という図式に依拠したものの見方に過ぎない可能性がある。

 ここで注目したいのは、「キャラ」が成立してくる以前の情報環境における、英雄としての形象を刺青の意匠として選ぶ、その心性である。

 生身を「おはなし」の側へ媒介してゆく、自ら生身のまま、「この世」に繋ぎ止められたまま、しかしそうではない水準のもうひとつのからだへ、「あの世」に転生してゆき得る生身の方へと自らを傷つけ「しるし」を施してゆく営みとしての刺青。

 強さであり、強靱さであるような表象は、物理的なものではなかった。「この世」で完結してしまうようなものでもなく、必ず「この世ならざる」世界との通底をほのめかすことで、その強さや強靱さは「この世」の側への侵犯力を確実なものにしてゆくことになっていった。

 路上の交通労働者たちの多くが好んで刺青を施していった時期はいつ頃だったのだろうか。「あの世」とどこかで繋がっていることを彼らは生身を介して感得していたゆえに、「この世ならざる」しるしを身に施していたというのはわかりやすい。そこから先、一歩踏み込んだところでも。

 松田修の「刺青」論。古代のそれと近世以降、特に江戸後期からの一気の盛り上がりは別もの、という前提を維持しながら、しかしそこに何らかの通底するものはないのか、という執着をもとにふくらませてゆく手癖は、70年代から80年代にかけての日本語環境での人文教養系がどのように自意識肥大させていったのか、という補助線を引きながら読み直すことが必要になってくる。

 しかし、随所に瞠目すべき指摘や断片は多い。国文学資料館で古文書の管理などにも実地にあたってきた強みが背景に透けて見える。小松和彦との対談なども後にあるけれども、ここはもう貫禄の違いありありで眼もあてられない具合。民俗学文化人類学の上すべりがどのように無惨だったかの民俗資料でもあったりする。

 それはおそらく、70年代状況での「小劇場」的オルタナティヴ、サブカルチュアの熱っぽさが、しかしそれらが敵対視し依拠してきた「新劇」的なそれまでのありようとの「関係」において初めて価値あるものになっていた、という構造とも通底している。たとえば、「傷天」以下のショーケンのあの滑舌の悪さや「勢い」一発の演技が、西村晃その他との「関係」において意味を見いだすようなものであったこと、などを思い起こせばいいだろう。

 松田修、はそういう意味でそれまでの「人文系」のオーソドキシーから生育してきた知性である。

 文字を身体に彫ることは珍しくなかったらしい。とすれば、「絵」と「文字」との関係が「刺青」という文脈においてどのように意味され、意識されていたのか、という新たな問いが生まれてこざるを得ない。

 文字を読めない者にとって「文字」を身体に彫ることの意味。それが経文であれ何らかの文章であれ。図像の意味と文字の意味のからみ具合がどうなっていたのか。文字もまた図像の脈絡にとりこまれたところで認識されていただろうことは推測できるにせよ、そこから先、ならばなぜ「文字」を含まねばならなかったのか、とか、彫る側の主体の意識や感覚に伴って同じ絵柄の刺青の意味が微妙に異なってきていた時代経緯ってのは考えられていいと思う。

 コスプレ、に至る経緯と刺青との関連性の検討。二次元の「図像」に自らを同化させようと思う、その想いの方向性は、たとえば、水滸伝の英雄「像」に自らを同化させようと願ったかつての遊侠の徒の意識とつながっていると解釈できなくもないだろう。

 ただ、その「像」が当時の情報環境を生きていた生身にとってどのように意識されていたのか、という問いは厳然としてある。水滸伝の英雄は彼らにとって多く「おはなし」であることは間違いないにせよ、その「おはなし」を媒介するのは「語り」であったり、あるいは「絵双紙」であったりしたはずで、なおかつ、それらを受容していた彼ら自身は「文字」の読み書きについては実装してなかっただろう。

 「文字」の読み書きの外側を生きていた生身にとっての、それら「語り」や「絵双紙」などを媒介にした「おはなし」はどのような作用を彼らの意識や感覚の側にもたらしていたのか、ということが、それら「像」のありようを推測するのに不可欠になってくるように思う。

 米騒動に引き続いて半ば自然発生的に起こってしまったらしい暴動の全国同時多発の状況で、筑豊の炭坑夫たちのリーダーが「朝比奈三郎」を取り調べにおいて名乗っていた感覚、の「民俗」レベルでの通底の可能性。なぜ彼は自分を「朝比奈三郎」だと「思って」いたのか。そう「思う」ことが可能だったのか。その場合彼の生身の意識や感覚に宿っていた「像」とはどのようなものだったのか。

 「おはなし」に「あこがれる」ということについての、「民俗」レベルも含めたほどき方を考えてゆく必要がある。ひとことで言ってしまえばそのようなものでしかない、しかし確かに「あこがれる」ことが生身の意識や感覚の側に逆照射させてくるだろう効果について。

 話しことば、を介して立ち上がる生身の内側のある種の喚起力の「強さ」「抗い難さ」の可能性。「文字」が意識や感覚を鎮静させる効果があり、それは自己相対化や客体化と言い換えて構わないようなものだろうが、そのような鎮静効果からあらかじめ疎外された生身としての「非文字」な身体のありようの突破力について、考慮に入れておく必要はあるだろう。

 刺青が「個」の表現である、という理解の仕方がある。集団から際だった「個」としての表現が刺青という形式になって現れるという理解だろう。ただ、それだけでは平板で凡庸に過ぎるのではないだろうか。刺青を「背負う」のは生身の「個」であることは事実であっても、その「背負う」ものの内実というのは必ず「個」を超えたところの何ものか、であったりする。生身の肉体を伴った「個」であることは間違いなく、そして刺青を「背負う」のもそのような「個」であることはひとまず事実であるとしても、敢えて刺青を「背負う」ことを選んでしまう心性とそこに至るからくりも含めて立ち止まってみるならば、それはそのような生身の肉体の「個」の間尺にだけ収まってしまうようなものではないことが理解されるはずである。

 刺青を媒介にして、「個」が必然的に関係を結んでいる何ものか、言い換えればそのような関係の中で「個」を「個」としてあらしめている何ものか、をさらに際だたせて可視化しようとする効果が「背負う」の中にははらまれてこないだろうか。「個」の表現としての刺青、という言い方が間違いではないにせよ平板で凡庸なもの言いとしか響かないのも、そういう関係の中での「個」の緊張感、宙吊りの懸垂状態についての感覚がそこには乏しいから、ということになる。

 もちろんそれは「個性」といった昨今の語彙の間尺ともおそらく程遠いものになる。

*1:これもまた、その後枝葉を繁らせてゆくことになった断片、走り書き程度のメモなれど備忘として……190415