「細部」の政治について・雑感

 そういうのに直面して、ああこれは「ウソ」だ≒価値がない情報だ、とその場で切り捨てちまうのが「マジメ」な「研究者」(でなくても)な人がただったりしたんだが、でも話しとらすご本人にとっちゃ同じ「おはなし」の脈絡ですんなり出てくるような「意味」はあったりするわけなんだわな。

 で、そういう年寄りももうほぼいなくなってきて、代わりに(っちゃヘンだが)目立ってきたのが「学校」で「教育」受けた文脈での、でも本質的には小野小町と変わらん類の細部wや文脈。歴史系のトンデモなんてのも割とそういう感じですんなり語りの中に浸透してきとるわけで。

 あと、これも考えたら当たり前だけど、テレビその他のいわゆる「マスコミ」経由のそういう細部や文脈。かつての小野小町や猿飛佐助と違ってこっちもそれを共有しとる分、聞きながらこっちがココロの中でマーカー打って「あれ?」と思いにくいところが案外あったりするわけで。

 昨今の「細部」言説の類が前々からどうにも違和感あるのも、もう初手から「細部」という「正義」「正解」を持って「はなし」を聞きに向かってるように見えるところなんだわな。あ、またいいor使える「細部」発見(゚∀゚)ピコーン!的な「合理性」「効率性」モードのソフト完璧実装済、みたいな。

 これって昨今メディアやジャーナリズムのポエム脳と同じでな。「いいハナシ」「弱者or被害者美談」という「正義」「正解」ありきで「現場」赴いて「効率的」に欲しいもの「発見」という手癖特化のプログラムだけを走らせとる人がたばかりでできあがったエリジウムな世間の習い性。