あやまったら死ぬ病気、のこと

 「あやまったら死ぬ病気」ってのはあれ、わずかなミスやトラブルが自分に関して存在することを認めたらたちまち四方八方から攻撃される、24時間相互マウンティング環境な「勝ち組」「意識高い」「優秀」ムラにおける異常な緊張状態下の病理、みたいなもんだろうか。

 ミスったらカバーするってのはどんな仕事でもあるはずだが、自分のミスをカバーしてケツ拭いてもらえることなど絶対にない、的な孤立感が凄いのか。そうじゃなく、そのケツ拭いてもろたこと自体がマウンティングの材料化してゆくことへの予防的忌避感、なんかの方が強いのか。

 じゃあ自分は他人のカバーをする/できるのか、というとどうなんだろ、淡々としたりするんかも知れんが、でもそこにムラなり組織なりの連帯感や共同性みたいなものは希薄どころか、おそらくないかも。その分「ああこいつこれで終わったな」的冷笑&ウエメセコンボの優越感が充満、とか。

 だとしたら、当然自分が困った時に「人に頼る/相談する」てなことも原則でけんのかも。案外「ひとりで抱え込む」病気と併発しとったり。初期対応せんでフタしとくから大事になってから発覚、とか。上から下までそれだとバレた時に外から「組織ぐるみ」に見えたりするが、内実はまるで違ってるかも。

 近年頻発しとる東芝や日立なんかの一流大企業やらかし事案見てても、ツラ出して頭下げるエラい人がたのたたずまいからしてもう「あ、これあかんやつや」なのも、そういう当事者感覚のなさが丸見えなところ。で、それは概ねアラカン50代「新人類」界隈のおっさんがたなのもきっと何か理由はありそう。仮にあやまったりしても絶対「受け入れてくれん」「本心で許してくれん」的な縛りもありそうだわなぁ、実際そうかどうかとは別に当人の思い込み的に。ってことはつまり当人自身がそういうキモチ持っとるってことなんだろうけど。

 あやまることもまたマウンティング的にとらえる/とらえられる、ってことなんかなぁ。なんというか、ゲームで持ち点がどんどん減ってく恐怖というか。で、それを挽回するボーナスステージみたいなものもほぼない、的縛りも共に、とか。そこで「だけ」自分の承認欲求の充足がかけられとる、という世界観の日常。何のことない、かつての大学受験の偏差値至上環境と変わらん構造かも。