50代アラカン新人類世代のリベサヨ転向左旋回問題。TLに浮上してくる頻度が今年になって、にわかに高くなってきたような印象がひしひしと。
いやしかしまあ50代後半ぐらいの「新人類世代」におサヨクぶる奴が異常に増えて来たけど、こいつら若い頃に絶対左翼じゃないし政治に関心もなかったろうよな。
もういなくなった某アカウントが「死期が近い老人が急に墓相がどうの言い出す。あれはあちらの世界に渡りを付けてんだろう」って言ってたけど似たようなもんかね。しかし歳喰ってから左旋回・築地踊り習い始めるってどんだけカルマ溜めこんでんだろ。
しかしまあ、概ね以下のこの25年前の古証文で、基本的な構造というか、背景自体はあらあら出ちまっとるように思うが。当時の「(新)保守」的装いが、昨今そのまま「リベラル」ぶりっこに入れ替わっただけ、という面は、情けないことこの上ないけど正直、否めなかろう、と。
「おたく」と新保守主義の関係について - king-biscuit WORKS
若い世代が新保守主義へ傾いてる、なんて最近言われているよね。言論という限られたステージにせよ、メディア市場のプロデュースともあいまって佐藤健志や福田和也といった固有名詞も出現し始めて、その「若い世代」の言論のありようとからめて語られることも出てきた。で、その場合の「若い世代」というのは、うっかり聞いてるとまさに我々のことだったりするんだけど(笑)。いわゆる新保守主義的言説になじむ感覚というのは個人的経験としてもわかるんだけど、ただ、今そういう文脈で記号としての「新保守主義」に分類され回収されることについては、僕自身「おいおい、ちょっと待たんかい」というところがある。くくられるのはある程度仕方ないにしても、その前にこっちでやっとかなきゃいけない作業ってのはまだいくつもあってさ。たとえば、八〇年代、新保守主義的な思想の流れが出てきた時期と、いわゆる「おたくカルチュア」が輪郭を整えてきた時期が重なっていることの意味なんか、もう少しゆっくり考えてほどいておく必要があると思うんだよ。
おたくは、というかおたく第一世代は、当時の「新保守主義」などと呼ばれていた保守的言説、それは後にネトウヨなどと呼びならわされるようになる流れの源流だったりしたわけだけれども、そこらと妙に親和性があった。とは言え、当時はまだ、その後のように「若い世代の右傾化」などという言い方はされなかったし、その程度にほっとかれてたところはあったけれども、しかし流れのありようとしては確実に間違いなく、後のネトウヨの類と連なるものではあったことは間違いない。
価値相対主義的なデタッチメント感覚が、何か漠然とした「正義」として感得されるようになっていた、で、それが当時の同時代気分として、今からもう想像しにくいほどに薄く広く共有されるようになっていた。そう、まさにある「気分」としての、当時の新しく世間の視線の側から捕捉されるようになり始めていた「若者」たちの共通項として。それまでの、70年代を通して主流になっていた「政治の時代」的な、ある限られたことばの作法が〈いま・ここ〉の〈リアル〉とどんどん紐つけられなくなっていった、その結果にぽっかりと空いた隙間にうっかり宿ってしまった、誰もそうとは思っていなかったけれども、でも確かにある種の「正義」だったもの。
この古証文の中の、たとえば以下の浅羽尊師の「新保守主義」理解とその上に立った批判なども、今から見れば、要するにそういう価値相対主義的デタッチメント感覚の「正義」を、彼一流の言い方で語り直してマニフェストしてるようなところがある。当時の左翼的発言は言うまでもなくすでに硬直していたし、何よりそれは「ダサいもの」になっていたから、それゆえ理屈抜きに「バカにして嗤い飛ばしても別に全く構わない」ことになっていた、そこの部分の「正義」感の自明性と風通しの良さ、が最も重心のかかっていた部分なのだからして。
昨今の新保守主義なんか。明らかに行き詰まってるもの。新保守主義っていうのは、もとより「行き詰まる思想」なの(笑)。だって、思想の否定ですからね。何かの価値を持ち上げる他の「思想らしい思想」に対して、「そんなのは観念論じゃないか、空想じゃないか」と言うわけ。みんなが、思想とは即ち観念なんだ、と言うことを知らなくて、本当に「人権」というものはあるものだ、と実体化していた時代、あるいは「科学的」社会主義なんてものが信じられた時代にはいい薬になったんだけど、それをみんなが知ってしまったのなら、もう用済みというわけですわ。ただ、逆に言うと新保守主義は「伝統」とか「常識」の内容を体系的に説くことはできない。だから行き詰まって先はない。もし仮りに彼らが一言でも「常識とはこういうものです」と言ったら「あっ、観念論観念論」と逆襲すればいいわけですから。だから、西部邁さんなんかバカじゃないから「常識」や「伝統」の内容は決して言わない。言ってしまったら保守思想はそれで終わりだから。
だから新保守主義の人たちも、たまに左翼的な発言や、湾岸戦争の時の平和宣言みたいなものが先祖返り的な形で出るとそういうモグラを一生懸命叩く、それ以上のことはもはやできなくなっている。だから、当然彼らも死んでいるわけです。そこまで両方とも衰弱しているということです。
繰り返す。左翼的なものが理屈として理論として思想として無効になっていたから、などではなく、そんなの以前に全く関係なく、とにかくただ「ダサいもの」になっていた、だから「反論」「批判」「批評」「議論」「対話」の類による「止揚」「乗り越え」などの、それまでのルールだと一応まっとうであるべきやり方とされていた対応の作法もまた全部ひっくるめて「意味のないもの」になっていた、そういうことだ。それまで約束ごととされていたゲームのルールも土台も、とにかくいっさい(゚⊿゚)シラネ& (゚⊿゚)クダラネを言っちまっても全く構わない、だって、それはそれまでのルール上のことばの作法などとは全く別のところの、圧倒的に異議無く「そんなもんだよね」と共感できる「ダサい」一発で「嗤い飛ばす」のがいちばん確かで〈リアル〉に感じられるようになっていたのだからして。*1