前川喜平、について

 前川喜平、というあの御仁について。Twitterより拾いもの、例によって。

 今更俺が言う必要もねえけど、善意と美徳の塊みたいな人間がいるわけないんだから、元高級官僚だけどおねーちゃんのいる店に通ってました、は別にいいんだよ。そういう両面ある人間を変に美化して正義の守護神みたいに祭り上げようとするから見透かされるんだよなー。完璧な人間ではないし、天下りにも関与してたし、おねーちゃんの店にも通いつめてたけど、それはそれとして今の政権の暴走は危惧している、でいいじゃんね。それでは誰もついてこない、ってんなら仕方ないじゃんか。そこまでの器なんだよな。

 文科省天下り利権の元締めだった、事務次官(だっけか)という官僚トップの地位を利用してあれこれかなり野放図な好き勝手やっていた、そのへんの「公的なやらかし」については、ひとまず措いておく。それはまた別の理屈、別のものさしで語り、裁断されるべきものだ。

 あやしげな風俗店(「出会い系バー」と称しとった)に足繁く通っていた、それがバレて追求された時に口にした、「貧困調査」でした、というあの言い訳、あれ一発でもう全部何もかも、この前川某というのがどういう御仁かということが完璧に満天下にバレてしまった。世間一般その他おおぜいの意識の視線は実はそこに合焦している。なのに、そのことについて何ひとつ自覚できない。いや、できないからこそあんな言い訳うっかりかましちまうんだろうが、それでいて恬として恥じない、どうかしたら「うまく言い抜けられた」とすら思っていそうなその後の気配などもひっくるめて、「そういう御仁」ということのバレ具合のすさまじさなのだ。そしてまた、そのへんの機微について同じくほぼわかっていないらしい報道以下のメディア界隈にも同じく「そういう御仁」体質が共有されとるらしい、ということも含めて。

 現役だった頃は、そりゃそれなりの手下なり仲間なりついてたんだろうし、またそれだけの利益の分配をやっていたんだろう、だからこそそこまでのし上げられた、そういう意味では確かに「やり手」であり「野心的で型破り」な高級官僚、ではあったんだろう。そのことはご本尊ももちろん十分に自覚して、その上でそのような「野心的で型破り」を意識的に演じてきていたのだろう。それをやっても決して排除されることはない、その限界線も含めての計算ずくも、中曽根の姻戚にあたるという霞ヶ関官僚世間での後ろ楯などを常に意識してのことだっただろう。その程度には確かに「やり手」の俗物ではあるのだ。

 だから、世間一般その他大勢の意識の視線は、同時にこういう理解もまた、宿す。「野心的で型破り」な「やり手」に対する、どこか「民俗」レベルにも通底しているらしい期待や斟酌、ある種の「英雄」「リーダーシップ」への信頼などと共に。

 天下りやおねーちゃんの店とは別に、夜間中学とか教育のセーフティネット周りに気を配ってたらしいことは事実なんだから、私欲も強いし官吏の天下り利権のキーマンだったけどそういう良いこともしてました、ってことだよな。後者の価値がそれで全く損なわれてしまう訳ではない。仮に夜の街に全く繰り出さないような次官だったら、やっぱり教育行政はもっと硬直化してただろう、っていう想定も可能なんだよな。なぜなら教育は一握りのエリートや将来の成功者だけを対象としたものではないからだ。

 「英雄、色を好む」などというもの言いもあった。むかしは平然とそれを言い訳にしていたし、それで世間もそれなりに「そういうもの」として納得し、それ以上あれこれ突っ込むこともなかった。そんな「おはなし」で眼前に起こっていることを理解する/してしまえる時代が、確かにあった。その頃その時代の意識のルーティンが、未だにこの程度の型として、形骸化したとは言えまだこの21世紀のニッポンの世間に残っているらしい、それは確かに興味深いものだ。それが昨今なりに「やった仕事と人格は別もの」「個人と業績は分けるべき」といった新たな「正義」のもの言いも繰り出しながら、ということも含めて。

 ただ、かつてのその「色を好む」を地で行き、敢えて演じて見せてもいた「英雄」たちは、決して「貧困調査」というような言い訳を口にすることはなかった。そんな言い訳をする、それ自体が「興ざめ」なことであり、「野心的で型破り」を「そういうもの」として納得することも辞さなかった世間一般その他おおぜいの「民俗」レベルも含めた意識の輪郭を一気に崩してしまう禁断の呪文であることを、他ならぬその「英雄」前川喜平自身、まるで理解していなかったことの何よりあからさまな証拠なのだからして。

 だから、世間の意識は「おはなし」としての輪郭を一気に失い、このような方向にも収斂してゆく。 

 若い頃から精力的に活動していて、教育の多面的な部分にも目の届く人物だった。省内の支配のためにも、天下り利権を握っておくことは必須だった。なぜなら上級国家公務員は「エリート」であり「自分たちと同類にもっとリソースを集中しろ」と考えてもおかしくないからだ。ただしそれはやはり「権」の類であって、力が足りないゆえに正攻法ではないのだよな。仮にそういう後ろ暗いやり方で省内を支配していたとしたら、明るみに出た以上は腹を切らねばならんのだ。

 奈良は御所市の出身とか。土地柄、被差別部落を間近に見て育ったことも、自らの来歴を語る上で好んで持ち出しているフシもある。祖父は大手冷凍機器メーカーの創業者で、まずは本邦近代化における産業勃興の民間の立志伝中の人物のひとり。上京して麻布中学・高校に学んだというのも、戦後高度経済成長期に新たに形成され始めていた戦後都市型選良の世間における「野心的で型破り」モードの上演の効き具合を10代から刷り込まれることになっただろう。そして、東大法学部へ。生活史的な背景からは、竹中平蔵橋下徹などと共通する何ものか、を濃厚に嗅ぎ取るのだけれども、それもまた措いておこう、この場では。

 「そういうもの」としてのエラい人がた、に対する信頼の拠りどころを担保してきていたはずの「おはなし」の、いまどきの情報環境における形骸化とそれがもたらす〈いま・ここ〉における弊害。「群を抜く力」とそれを支え、育てながら役に立つように使い回してゆく世間一般その他おおぜいの側の「民俗」レベルも含めた「おはなし」の使い勝手といった方向からの考察にとってもこの前川喜平「貧困調査」事案、いくつもの問いを提示している。