「記録」ということ、殊にその現在について

 「記録」の意味がなしくずしにこれまでと変わり始めているらしい、こと。昨今の役所の文書「改竄」騒動その他、あれこれ眺めながら考えている。

 国会での追及沙汰が、もう何のためのものかわからなくなっている状況なのはひとまず措いておく。「改竄」を声高に論って叫び回っている側が、そもそもそのベースになるはずの「記録」であり、かつそもそも「公的文書」というのがどういう性格や属性のものであるかについて、どうやら定まった見解が共有されていないらしいこと、言わばもともとの出発点、ゼロポイントを理解していないまんま、ただひたすら「改竄」を声高に論って叫び回っていること、それらが全部どれだけめちゃくちゃな状況を作り出しているのか。

 そういう人がたが論う「改竄」とは、本来ちゃんとした「記録」としてあるものが、あってはならない適切ではない手続きによって「別の記録に書き換えられていた」ということだろう。もとの「記録」とは、そして「公的文書」とは、そのような一定の適切な手続きによって「記録」として定着されたものである、という前提を出発点とすれば、それは確かに不適切であり、あってはならない事態、ではある。それは確かにそうだ。

 だが、報道その他で見聞きする限り、最終的な「公的文書」に至る過程で担当者が私的に書きとめた「メモ」の類や、「公的文書」として最終的に確定されるまでの、言わば推敲や校正の過程で作られていた書類まで、どうやら全部同じように「記録」とみなしているらしい。その前提の上で、文書が「改竄」されている、それまでと違う記述を含んだ「記録」が発見された、と騒ぎ回ることをずっと続けているらしい。

 これってもしかしたら、と思う。「記録」することの意味やその確かさみたいなものが、新聞社その他いまどきマスコミの現場において、少し前までのような常識的な理解として共有されなくなっているんじゃないか。たとえば「コピー&ペースト」的な意味あいと気楽さで、言わば手癖と習い性でも遂行してしまえる、そんな単なる「処理」の作業という意味あいもまた、昨今の「記録」というもの言いに平然と含み込まれるようになっていたりするんじゃないか。

 なるほど、確かに日常において昨今、われわれが経験している「行為としての記録」というのは、概ねそのようなものになってきている。手書きのメモであれ、スマホタブレットなどに指先のフリックで記されるテキストであれ、はたまたキーボード介して打ち込まれる文書であれ、結果として「記録物としての記録」に至るまでの具体的な生身の作業としての「行為としての記録」は少し前までとは比べものにならないくらい多様化している。いや、それだけではない。単に文字だけでなく、いまや画像や動画、音声なども、必要な機材やデバイスさえ手もとのあって操作できるならそのような意味で「記録」する/されることが容易に可能になっているし、結果として「行為としての記録」の敷居も低くなると共に、その結果アウトプットされる「記録物としての記録」もなしくずしにその幅を拡大している。まして、それら全てはデジタイズされた「情報」として存在するようになっているのだから、「記録物」の意味もまた以前とは変わってきていて不思議はない。

 新聞記者にしても、昨今の記者会見などでみんな一様にノートパソコンを拡げ、そこでカタカタとキーボードを鳴らしながら発言内容を打ち込んでいる姿が当たり前になっている。いや、そこでどんな「記録」を作り出しているのか、会見での発言内容そのものなのか、取材メモなのか、あるいはツイッターなどに書き込んでいるのか、もしかしたらゲームでもやっているのか、その姿だけからはわからないのだけれども、少なくとも「現場」で「取材」をする/しているという姿もまた、眼前の相手のしゃべっていることに耳を傾けながら手を動かしてメモをとる、それも場合によってはポケットの中で気づかれないように素早くとってたりするような、少し前までの当たり前とも変わってしまっていることは間違いない。

 眼前の現実、自分もまた生身としてその場に身を置いているような〈いま・ここ〉の現場において、何らかの「記録」をとる、その行為自体はひとまず昔も今も変わらない。しかし、他でもない自分が手を動かしてメモをすることだけでなく、手にしたICレコーダーを突き出し、拡げたノートパソコンでキーを叩いて打ち込み、デジカメやスマホをかざして画像や動画を撮り、といったさまざまな具体的な行為が必然的に介されざるを得ないような状況に、いまどきの情報環境はなっている。「記録物としての記録」に至るまでの過程での「行為としての記録」は、少し前まで当たり前だったような素朴な「手で書く」ことだけに収斂するような、だから生身の意識としてもある方向に集中してゆけるような、そんなインテンシヴな質のものではなくなっているらしい、良くも悪くも。

 だから、「記録」もまた、その意味を変えてゆかざるを得ないということなのか。ある決められた手続きに則って最終的な「記録物としての記録」(≒「公的文書」)へと仕上げて定着させてゆく、言い換えれば「確かなかたち」へ確定してゆく、そういう過程自体もまた、意識されない/見えないものになっているのか。自分自身の手で「書く」のでなく、さまざまな機械や機材、デバイス任せに自分はその「操作」をするだけで、それも単なるその場の手癖や習い性任せの「処理」で記録されることまでが、「行為としての記録」の中に大きく入り込み始めているのか。*1

 

*1:このお題もまた、gdgdと続かざるを得ないとおも