「記録」ということ、殊にその現在について、続き

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 「記録」の過程から主体が喪失され始めているかも知れないこと。24時間体制で稼働し続ける監視カメラのように、シームレスな「環境」として「記録」がされ得るようになっている現在から、誰が何のためにどういう意図で、といった主体の制御の位相がなしくずしに失われつつある可能性。どこかで必ずそういう風に「記録」されている、という意識や感覚が当たり前になってゆくことで、敢えて意識的に意図的に、主体的に「記録する」という意識もまた日常の〈いま・ここ〉の裡に埋もれてゆく必然。

 ことの本質として、〈いま・ここ〉の現在は最も「記録」から疎外され続けている。それはおそらく現代のみならず、われわれ人間と情報環境の関係としては、これまでも概ね常にそんなものだったろう。書きことば的「記録」に向かうためには、それを包摂している話しことば的〈いま・ここ〉のとりとめなさの裡から「記録する」という自覚を宿すことがまず必要になるし、当然それを宿す主体も不可欠になってくる。主体なくして書きことば的「記録」はまずあり得ないはずなのだ、少なくとも原理的には。だからこそ、そのような書きことば的「記録」を前提にした社会の、歴史の、もっと言えば〈リアル〉の編成というのがわれわれ人間にとっての、ある時期ある情報環境が確立されるようになってからこっちの認識にとって、必須の条件になってきているはずだ。

 現在の〈いま・ここ〉とは、常にそのような〈まるごと〉としてのみ、あり続けている。それは「記録」を介した現実の向こう側であり、そのような意味で「歴史」や「社会」といったわれわれ人間の現実認識のある種の枠組みから常にのがれ続ける領域でもある。それらを「歴史」や「社会」といった認識の枠組みの側に引き寄せるためには、何らかの形で「記録」へと変換してゆく作業が必要なのだし、その作業としての「記録する」こと、それを具体的、かつ意識的に行なう主体が求められる。

 けれども、昨今の新たなテクノロジーが招来している情報環境においては、先に触れたようなシームレス稼働の監視カメラのように、ひとまず自動的にずっと「記録する」ことが何らかの主体とは離れたところで勝手に行なわれることが可能になっている。映像系の「記録」はそれまでの書きことば≒文字的な「記録」と質において異なるといった議論もあり得るだろうが、ひとまずそれは措いておこう。問題にしたいのはそのような「記録する」ことが主体抜きに、少なくとも主体との距離があいまいで不透明なままシームレスに可能になっていて、その結果もちろん「記録」もまた持続的にアウトプットされているはず、という環境が成立し得るようになっている、そのことだ。

 この自分が意識的に「記録する」ことをしなくても、どうせどこかで「記録」はつくられ続けているはず、という意識。〈いま・ここ〉の現場を「記録」の側に紐付けてゆくこと、についての方法意識やそれに伴う使命感などの後退。「記録」はシームレスに膨大に日々蓄積されてはゆくだろうし、またテクノロジーの進展はそれらを合理的効率的に整理しメンテナンスし続けるからくりもまた、発明してゆくのだろうが、ただその場合でも、無制限に蓄積され続けるそのようなシームレスな「記録」は果してこれまでのような意味や文脈での「データベース」や「アーカイヴ」になり得るのか、その間に何か本質的な違いは介在しないのか。近年よく眼にするようになった「ビッグデータ」とか言われる考え方がどのようなものか、こちとら門外漢かつ不勉強なのでよくわからないけれども、このような「記録」とそれにまつわる情報環境のルーティンがどこかでこれまでと違うものになりつつあるかも知れない状況を見越した上での議論になってたりするのだろうか。

 

*1:承前気味に。