柳田國男にとっての「書く」、の再考

 柳田國男にとっての「書く」ことの内実とはどのようなものだったのか、という問い。特に、話しことばの切り開く現実の水準に眼を開いてゆくことのできた彼が、それらを書きことばの現実へと、つまり「記録」へと変換してゆくことの意義を、その功罪含めてどのように考えていたのか、という視点からの。

 後に「民俗学」と呼ぶことをも、おそらくは半ばなしくずしに、半ばは「戦後」の言語空間との相関においての損得勘定なども含めて自認していった彼のガクモンにとって、それを「科学」としてどのように組織してゆこうと思うようになっていったのか。時期としては大正末から昭和初期、明確化してゆくのは「民間伝承の会」の組織化あたりからだろうが、いずれそれらの時期の同時代的背景なども考慮すると、彼が意図的に方向付けしようとしていった「科学」の内実というのもまた、もう少し立ち止まったところで静かに考え直してみる必要があるだろう。

 それは、唐突かも知れないが、彼が文学的脈絡での「自然主義」をどのようにとらえていたのか、晩年の「全集」に若い頃の新体詩や和歌などの創作を入れることを自ら拒否したという逸話なども含めて、これまた立ち止まって考え直してみる必要をも引き出してゆく。「科学」的認識を前提に、自分をとりまく現実を客観的に観察分析してゆくことはもとより、それを自分の内面にまでも透徹させてゆくことをどれだけ「正義」として自分のものにしてゆけるか。そのような本来の「自然主義」理解を、外国語で文学書を読めた彼はおそらく持っていただろう。だから花袋らの通俗的な「自然主義」に対する距離感も当然、持つことになっただろうし、同時にそれらの中でも「重右衛門の最期」などは評価するスタンスにもつながったのだろう。*1同じように、自分自身の新体詩や和歌などを評価しなかった理由もまた、それらを作った当時はともかく、その後の通俗的な「自然主義」を結果として受容していった本邦近代文学の枠組みからしたら、それは「自分」が確かに書いた「創作」「作品」という実感は持てなくなっていたのではないだろうか。

 一般的な理解としては、若書きな恋愛沙汰なども包摂されている可能性もあるので自ら忌避した、とか、あるいは、彼独特のダンディズムによるもの、とか、そういう割と世俗的、属人的な事情の方向で説明されてきているようだけれども、確か晩年の「故郷70年」でも回想的に述べていたように、当時の和歌の創作というのは、実際に自分の抱いた感情や印象、つまり「内面」をそのまま歌にするのでなく、すでにあらかじめ存在している古典なり何なり、既存の和歌をとにかく定型として覚えて、与えられた条件によってどれだけうまくそれらを組み合わせて提示できるか、そんな稽古をひたすらするようなものだったから、10代半ばくらいの子どもでももっともらしい恋愛を歌ったものや相聞歌みたいなものも作れたのだ、だからそんなものを「自分」の著作としてカウントするわけにはいかない、概ねそんな説明をしていたことについて、もう一度考えなおしてみる必要があるだろう。

 これは、小泉八雲が松江の中学校で英語教師をしていた頃の、当時の日本人の中学生に「富士山」というテーマで英作文をさせたところ、きれいに定型の表現しか出てこなかったので驚いた、という逸話などとも重なってくる。かつての日本人にとっての表現とはそのような定型をどれだけ自分の引き出しとして取り込んで、それを状況や求めに応じてうまく組み合わせて提示することができるか、といったものだったという、これまで言われてきたような理解と共に、さらにそこから先、そのような表現の習い性が「書きことば」的な水準での「記録」の位相にまで影を落としていた可能性についても眼を止めておいていいと思う。あるいは、これは戦後のことだったと思うが、渋沢敬三たちが文字に暗い人たちに「書く」ことを教えて、自らの体験や人生について書いてもらうようにしているということを耳にした柳田が、「渋沢くんたちはむごいことをする」と言ったという挿話についても、同じような脈絡で、また。

 この「むごい」は、個人の体験や見聞について、外から力を加えて、それこそ歯磨きのチューブから中身を押し出すように「書く」方向に、つまり「記録」の側へと向けさせることについて言われた感想である、という風に自分も解釈していたのだが、どうもそれだけでもないらしいことに近年、気がつくようになってきている。つまり、話しことばの現実にだけ概ね生きてきている、そんな人がたにとって自分の体験や見聞について、書きことばの現実の側につなげてゆくような機会を外側から与えて、しかもそれを自ら「記録」に変換させようとする、そのこと自体が彼ら彼女ら自身にとっての体験や見聞をうっかり客体化させてしまうことで、それまで話しことばの現実の裡でだけ流通し、安定していたはずのそれら体験や見聞の意味を、それらとはある意味別の書きことばの現実の側で改めて意味づけ、解釈し、それまでとは別の気づかせ方すらさせてゆくような効果まで含めて、その「書く」ことや「記録」にしてゆくことの波及効果の裾野までゆったりと視野に収めていた可能性について、こちらが問いとして合焦できるようになってきたということでもある。

 公的に書き残される書きことばの「記録」と、先に言ったような「自然主義」的な視線によって解析された結果の書きことばと(「記録」と言わないまでも)、そのどちらに重点を置くべきか、柳田自身はどのように切り分けていたのか、あるいはいなかったままだったのか。言い換えれば、「読書童子」とかつて佐藤健二が評したような「文字の人」としての柳田にとって、「記録」として残しておくべき書きことばと、文芸や文学として作品化され得る書きことばと、どのような違いがあったのだろうか。さらにそれと活字化され出版、公刊されてゆく書物書籍との間の距離なども。

 「科学」としてガクモンとして民間伝承を扱う手癖を洗練させてゆこう、と明確に意識して動くようになった、だからこそ「民間伝承論」などという著作も発表するようになっていたし、若い世代を全国で同士糾合、組織として動くようにも工作していった、それが昭和初年から10年代にかけての時期に精力的に活動していた柳田だった。そこで想定されていた「科学」としての、それを土台から支えることを期待していたはずの「記録」とは、それこそたとえば「民俗採集手帖」的な画一的なマニュアルを介して実体化されてゆくものだったわけだが、その結果の「記録」のありようというのは、残された書き込みをされた手帖を眺める限り、どうにも無味乾燥で、かつ単なるノートやメモ以上の内実を伴うことのない、そういう「記録」であるとしか言いようのないものだった。率直に言って、おもしろくも何ともない。そういうおもしろくも何ともない書きことばの、ノートやメモ以上の内実を伴っているとは思えない「記録」を、はたして彼は公的に書き残されるべき書きことばとして認定していたのだろうか。

 そんなはずはない、と思う。組織として構築され始めていた民俗学の実地の「採集」において一次的に「記録」される書きことばの水準は、まずそのような単なるノートやメモ以上になりようがなかった、そのことを彼自身よく知っていただろう。それは、他でもない彼自身が「書き手」として、公的に書き残されるべき書きことばの水準に再構築してゆく上での「素材」としてのみ、ひとまず想定されているようなものだっただろう。それは、以前から「一将功成って万卒枯る」的なもの言いで素朴に、かつ粗雑に批判されてきたいわゆる「柳田システム」の「中央集権」であることは確かだろうが、ただ同時に、その時期、組織化と共に、その中心に否応なく存立せざるを得なかった「書き手」としての彼の自意識が、それまでよりずっと明確にその像を定着させるようになっていたかも知れないことと共に、当時の時代状況や情報環境などを背景にしながら、これもまたもう一度立ち止まって考えてみなければならないことだと思っている。*2

 

 

*1吉本隆明もそのへん合焦はしているが、花袋に対する違和感の足場を「民俗学の方法」という角度から先には詰めていないように思える。http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a130.html

*2:いわゆるジャーナリズム、殊に新聞の現場における「記者」とそれ以外の探訪などの分業のありようと、そこから派生して生み出されてくる大量化した書きことばとしてのことばやもの言いの水準の関連について、朝日新聞の内側に論説委員的な立場で見聞きする立場にあった時期のこと、大衆社会状況とそれに随伴する情報環境のあり方からどのように〈いま・ここ〉の〈リアル〉を抽出してゆけるのか、といった問題意識と共に当時の柳田の意識や思惑などを推察してゆくことが必要かも知れない。