山口昌男の「歴史人類学」について、もう一度立ち止まってみること。いま、このような状況、かつ情報環境/言語空間になっているからこそ、敢えて。若い頃、それこそ意気盛んな頃に盛んに言及していてその後しばらく表だって言わなくなっていたのを、晩年になってまた持ち出していた印象の強い術語ではあるが。一時期の「カルチュラル・スタディーズ」や、近年だと「歴史社会学」などになしくずしに取って代わられたというか、すでにもともとどのような問いを含んでいた術語だったのか、昨今の状況だとその本来持っていた可能性の相すら、すでに見失われているような気がする。
たとえば、知られているところで、「歴史人類学或いは人類学的歴史学へ」(1976年『思想』12月号)あたりから。
「ル・ゴフの言う歴史人類学、或いは筆者が手前味噌的に使う言葉は単に、歴史学者が人類学者のモノグラフを書いたとか、又は人類学者が歴史記述をやったとかということを指すのではない。それは、時間・空間についての新しい感受性(コスモロジカルな感覚)を基にして過去に向おうとする姿勢であり、そのために人類学の成果をモデルとして使い歴史記述の新しい次元をきり拓こうとする方法に裏うちされた歴史研究であると言ってもよかろう。そしてこの立場の指標は、年代誌からの解放であり、表層の歴史記述から深層の歴史記述への移行であると言える。」
1976年、今さらもう42年も前に書かれたものになる。『知の遠近法』(1978年)に再録されたもので、初めて読んだ記憶がある。
70年代の前半、民衆史や地域史が注目され、また民俗学に代表される「土着」のモメントが思想史的/論壇的脈絡も含めて重要な論点として浮上してひとめぐりしていた頃になる。また、人類学まわりの領域がらみならば、フランス系の構造主義が紹介されるようになり、レヴィ・ストロースなども分野を越えて言及されるようになり始めていた。日本語環境での人文社会系の言語空間が、当時の情報環境のありようと相関しながら60年代までのそれと違うものになりつつあった、そんな中、「諸学の王」として自他共に許す君臨ぶりを謳歌してきたかに見えた「歴史」もまた、このようにそれまでと違う方向、異なる視点からの「関節はずし」を仕掛けられるようになっていたということだろう。
「歴史研究が非西欧世界の研究に求めるのは、使い古された歴史のパラダイムでも、新独立国の精神的玩具である編年史的記述でもなく、これらの文化の中に潜み、人間の過去に対する関わり合い方について、西欧の歴史研究の中からはふつう掴み出し得ないような概念とか歴史記述のレヴェルと言ったものであろう。このあたりに、歴史学が歴史人類学を提唱しても、人類学の側に直ちに対応する姿勢が現われて来にくい事情の拠って来たるところがあるのであろう。」
山口昌男にとっての「(文化)人類学」というのは、おそらく当時の学会/界の理解からすればかなり外道で、穏やかに言いなしてもよくわからない、理解されることの少ないものだっただろう、と改めて思う。京都を中心とした関西圏は措いておくとしても、関東圏に限ってもイギリス流の社会人類学に規定されていた当時の都立大学を中心としたスクールに、アメリカ流の心理主義的な学風を抱いていた界隈、さらに東大のある部分には中根千枝以下、これまた政治的政策的にパワフルな一群も巣喰っていたし、さらにそれらとはまた別の流儀や学風、それぞれの「(文化)人類学」ないしは「民族学」が並列的に、それこそそれぞれのシアワセをまどろんでいられるようなちいさなムラとして存在していた。ジャーナリズムも含めた世間で「文化人類学」という看板は取り沙汰されるようになっていて注目もされ始めていたものの、その内実というのは学会/界に限ったところではそのようにあれこれ多様、互いの流儀や肌合いの違いはいま思い返してみてもかなりあったと思う、良くも悪くも。
ル・ゴフを導きの糸としてミシュレなどにも言及しながら、「歴史」ということばに込められてきていた日本語環境でのさまざまな内実を、ひとまずその経緯や来歴などを敢えて棚に上げたところで、「(文化)人類学」的な脈絡で書き換えられてきていた「歴史」のありようについて、彼は熱っぽく称揚する。そこで散りばめられているそのミシュレやル・ゴフなどといった、いずれガイジンのガクシャとおぼしきカタカナの固有名詞についての個々の知識やその背景などについて、フランス語に通じるフランス文学や文化研究、一部の社会学や哲学などといった領域のごくわずかな専門家を別として、当時すでに大きな広がりを獲得していたジャーナリズムを介した「人文書的教養」を支える「読書人」市場の中核であったような読者の多くは、まずよくわからないままだっただろうことも含めて、それらを全部すっ飛ばして構わないような「熱さ」と「速度」とで、その頃の山口昌男は確かに語り続けていた。*1
「ミシュレが『フランス史』の序文の中で、一方では物質生活を研究すること、他方では精神の問題に関心を向けることの重要性を説いたとル・ゴフが言う時、両者を切り離して研究対象とすることに対する警告と受け止めたほうがよいであろう。つまり、物質生活に現われる精神の深層が問題になっているのである。それをル・ゴフはミシュレの言葉を藉りて、習俗などに現われている人々の心の形と言っている。こうした物質と精神を繋ぐもの、その両者を同時に表現できるものが媒体としての身体性である。これまでの歴史学は媒介される事物・事象・精神をばらばらに追って来た。或いはそれらを一つの立場から記述することで足りていた。新しい歴史学においては、むしろ、これまで透明であった媒体をどしどし取り出して、それらの媒体を通して神話・象徴論的古層に直接下降していかなければならないであろう。」
「深層」「心の形」「神話・象徴論的古層」といったあたりの、当時すでにある種のキーワード的に使い回されるようになっていたもの言いで指し示そうとしている領域こそが、当時の彼の「歴史人類学」の「歴史」の内実の重心がかけられているポイントであることが、改めてよくわかるし、そのような脈絡で柳田國男に、そして本邦のものに限らぬ民俗学一般に早くからシンパシーを抱いて表明もしていたこともまた、理解できる。つけ加えておけば、「身体性」という、これまたその後の経緯で日本語環境での人文社会系から知的コミュニティ一般の中に良くも悪くも拡散し、焦点がぼやけていったもの言いについても、それら「深層」「古層」系のもの言いと抜き難く関わってくるはずであっただろう本来の可能性と共に示されている。*2