「処理/対応」という作業と「情報」化・メモ

 ああ、確かにこういうのがいまどき「劣化」のひとつの現われ方かも知れんなぁ……しかも専門家もシロウトも一緒くた横並びの症状として。

 その「劣化」のレベルというかありようが、一定のありかたに揃って同調してゆく感じ、とかも。単に知識や情報量の多寡の問題なんかじゃないし、むしろ知識や情報量はなんぼでも抱え込める情報環境な分、器が見合わず持て余しちまっとるような感じも。

 知識や情報量がそれをこなしてゆくキャパを越えて飽和しとるというか、それらを「処理/対応」するための受け皿がすでに単純化させられちまってて、そこに次から次へと流れ作業のように放り込んで一丁あがり、的フローから逃れられんというか。

 大量で雑多ものをただ雑多なまま、じっと眺めておくこと、ってのが実はいまどき情報環境だといちばん難しいことなのかも知れんなぁ、特にいわゆるいまどき「優秀」「意識高い」系属性貼りつかされちまっとるような人がたは。

 「処理/対応」することが「解釈」であり「正解」である、という前提で、しかもそれを「人より早く」という競争意識が縛りかけてくる状態。そりゃ「センセ!ハイ!ハイ!ハイ!」な教室優等生身振り&意識にしかならんわな。*1

 そういうのに限って「ディテール」だの「細部」だのまで「処理/対応」プロトコル介して別モノにしちまっとったりするんだぜ、しかもドヤ顔うっとり気分でほくそ笑みすらしながら。

 そういう「対応/処理」の速度&プロトコルデフォになっとる生身/主体介してしか立ち上がらん「細部」「ディテール」だのは、ある意味フェイクorシミュラークルwみたいなもんで、な。もちろんその分整っているしそういう「対応/処理」に特化した合理的w変形変質もあらかじめ施されとるわけで。

 で、それはもちろん書き手生産過程のみならず、読み手受容消費過程も同じ構造の内側なわけで。「対応/処理」プロトコルで生産された「情報」が同じブロトコル共有しとる読み手からも「対応/処理」の「速度」で「読まれ/消費され」るから、ほいトーキョーエリジウム的「優秀」共同体の完成、と。

*1:「処理/対応」にはその前提として「情報」が在るわけで。個別具体のブツとして現実に存在するありようは常に言葉本来の意味での「多様」であるはずなのに、それらをデジタイズしてゆくことで一律に「情報」というくくり方でまとめてゆく、その過程と「処理/対応」という動作・作業とはワンセットで立ち上がる、と。このへんは懸案の情報環境の変貌にまつわる柱のひとつに。