「大学」と地元/地域の関係、その変わり方

 大学、書店、古書店、映画館、喫茶店……あまり意識されていなかったのかも知れないのだが、それら〈知〉なり「文化」なりを宿してゆく(とされ/思われていた)具体的な装置の類は、いずれも実はある「地元/地域」の間尺で初めて十全に棲息できていたらしい。もう少し別の言い方に置き換えるならば「ドメスティック」な、半径身の丈の手ざわりを失わないですむ程度の範囲の〈いま・ここ〉ベースの日常感覚において、ということになるのかも知れない。

 そういう環境で最もよく生かされていたはずの人がたの、まずは最たるものだったはずの人文社会系人士から率先してそれら「地元/地域」をなかったことにしてゆくもの言いだの能書きだのを嬉々として、そして「正義」の装いすらまといながら精力的に垂れ流していった過程、というのもすでにわれわれの同時代の「歴史」として横たわっているらしい。そういう環境で生かされてきたし育ててもらってもきた、という自覚だけは憚りながら人後に落ちないし、また、もしかしたらその人後に落ちなさについても今やほぼ絶滅確定、早晩時代の流れの中に忘れられ置き去りにされてゆくこと必定の人種の群れの、そのまたしんがりあたりに位置しているのかも知れん、という静かな自覚と共に。

 

  書店   ⇒ ツタヤ化 or 絶滅

  古書店  ⇒ ブックオフ化/ネット店化 or 絶滅

  映画館  ⇒ シネコン化 or 絶滅

  茶店  ⇒ スタバ化 or 絶滅

 

*1

 ああ、敢えて文字にする、書きとめてみる、ということは、やっぱり大したものだな、と思う。実際、こうして書きとめながら、改めて何かがわかったような気がする。ここ20年ばかり、今世紀に入るあたりから進行してきていた「変化」について。そしてその中で起こってきていた事態のある本質について。

 こういう環境に包囲された大学も、窒息立ち枯れしてゆくのはどうしようもないほどの必然、避けがたい事態なんだと思い知らざるを得ない。殊に、いわゆる人文社会系、あるいはもっとゆるく開かれた文脈での「人文書」「教養」系とそれを日々呼吸することが習い性になっていたような「本読み」的な意識にとっては。

*1:これに定食屋以下その他ラーメン屋や蕎麦屋など喰い物屋、雀荘やビリヤードにゲーセンなどを加えてもいいとおも。以下、関連(´・ω・)つ「東京に住んでいた頃は知らない私鉄沿線の小さな駅前をぶらっと探索するという遊びをよくやったものだが、一見の他所者の入りやすい場所はまず書店、次にパチンコ屋、ゲーセン、そして衣料品系のスーパーやラーメン屋だったかなあ。そういう街の顔みたいな部分がみんなノッペラボーになっていくんだな。」