「収集」と世界の果て、の関係について

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 あらかじめ世界の果て、全貌が決められた上での収集と、そうでない収集との間にあるはずの、おそらく決定的かつ本質的な違いについて。あるいは、「学校化」ということの、おそらくはココロのありよう、ある種の意識の持ちように対する避け難い、しかしこれまた致命的な影響のかたちとしても、また。そしてさらに、コレクターや収集家、と呼ばれていた人がたの習い性と、本邦で特に「おたく」と呼ばれるようになっていった人がたのココロのありようの間の、どうしようもない「違い」に関わる問いとしても。

 あらかじめ世界の果てが決まっている、というのは、動くべき土俵が決められているということでもある。その場合、土俵だけでなくその土俵の中での立ち居振る舞いの約束ごと、つまりルールもまた決められていることが多いだろう。ある種スポーツやゲームのような前提がつくられている、ということでもある。対峙すべき状況やそれに対する対応の選択肢などが単純化して整理されていて、それらをできるだけ完全に把握し自分で使いこなせるようになった上で、順列組み合わせのような形でそれぞれの状況に対する最も合理的な選択肢を「正解」として構築し、選んでゆく。そのような過程で「習熟」もまた、合理的かつ効率的に行なわれてゆけるし、その分それが眼に見えやすい形になってフィードバックもされるはずだ。*2

 そのような上限が囲われたままのフィールドで「競争」することが前提での「収集」は、収集する「自分」との関係で収集されるブツなり対象物なりの意味づけがされる、その紐付きのありようが稀薄にならざるを得ない。その分、何か“よからぬもの”もまた加速される。*3淡々と、ただ「自分」との関係においてだけ賞翫し慈しみ意味づけてゆくこと、それだけが「収集」の「趣味」性を支えていたはずだったものが、あらかじめ決められた上限の範囲での比較や競争といったものさしの側に本質が収奪されてしまう危うさ。世界の上限が決められているからそこから逆算して「大人買い」といった一気呵成、「趣味」性からしたら野暮でしかない外道な所業も恥じらいなくできるようになるし、また「コンプリート」などという「ゴール」も勝手に、そして傲慢にも想定されるようになる。「満点」が最終目標でしかない試験に対するのと、おそらくは同じココロのありよう。集め尽くし「コンプリート」することが「ゴール」であり「正解」となってしまう頽廃。どんなに頑張ってもこの世の文字を読み尽くせないとわかってから初めて「読む」ことの意味と方法意識とを手もとで制御し想定する必要に覚醒したらしい柳田國男の挿話に含まれる、あの教訓との間の越えがたい壁の高さ。あらかじめ「ある」ことばやもの言いに対する懐疑や相対化をしない/できないまま、ただその範囲での効率的/合理的順列組み合わせ≒「正解」を発見してゆくことにだけ特化されたいまどき系「優秀」のありようとも必ずどこかで関わってくるはずのどうしようもなさ。

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*1:ブツを集める、つまり「収集」についてのこと、例によって備忘的に。

*2:これは本邦における定型詩、それこそ和歌/短歌のかつてある時期までの「習熟」にもどこか似ているような気がする。これまた例によってとりとめなくも枝分かれしてゆく問いとして。

*3:「よからぬもの」とは、たとえば「自分」の制御下におけない、あるいはおくことを初手から想定すらされていないような種類のブツが、個別具体的な存在としてでなく抽象的で平板な「情報」としてだけ限度を越えて、半ば自動的に集積されてゆくことによってもたらされる澱、ないしは不純物のようなものかも知れない。

*4:少し前のこのへんともまた関わってこざるを得んお題なわけで……(´・ω・)つ「「学問」を成り立たせていた「戦後/昭和後期」の情報環境、のこと - king-biscuit NOTES 」 d.hatena.ne.jp/vigilante/2018…