国民国家と家≒家庭の関係性。国家優先の図式を逆転した家≒家庭優先の論理図式の提示と家政学の必要を説く言説の19世紀後半の世界的同時代性。ネイション≒国民が国家という文脈における個人≒私≒家庭的日常の主体となり得るという考え方。戦後的個人が生物的個体としてだけ認識されようになっていて国家なり社会なりといった文脈との関係で個人が主体化できなくなっていること。主体があって制御を介した客体もあること。その間に政治も介在してくること。より良い状態の維持が制御を主旨とした政治でもあること。そのためには技術も知識も必要なこと。ドメスティックサイエンス/ポリティクスとしての家政学。「科学」化する日常の理想像。
イオンその他の巨大流通端末からコンビニ網、立ち喰いとその延長線上のファストフード店網などが複合して実質「公共食堂」的機能を代替するようになっている本邦生活環境の現在。あるいはまた、地震その他災害時に必ず出動して「日常」の復旧作業に具体的に従事してくれ、しかもそれは単に崩壊した家屋や建物の片づけから道路や河川その他インフラの再構築にとどまらず、給水から避難所設置、さらに日々の炊き出しから風呂の提供に至るまで、「日常」が「家庭」において営まれている作業のかなりの部分を暫定的にせよ担保してくれる役回りを安心して任せられる組織ないしは集団としてのわが自衛隊などまでも含めて、「家事」とくくられる衣食住の要素が実質かなりの程度それら「公共」(形はさまざまで内実もアレながら)に委ねられるようになってきていること。そしてことの本質としては、出産&育児および高齢者介護という、いずれニンゲンにとって本質的な「再生産」過程に関わる部分が「公共」化へのボトルネックとなっていること。
ショッピングモールのフードコートが主婦や学生のたまり場になってたりサイデリアが老若男女の昼酒屋になっていたりする状況ですしねえ。いっその事、その辺に雑誌・漫画をおいたりDJにBGMを流させたりした方が「場の提供」という意味では効率的かも。実際、てんやのカウンターで一人昼酒をしている老人とか立ち食いそば屋で昼ビールを飲んでいる外人なんかもよく見かけるようなりましたんで、そっちに公共的環境という機能を付加した方が手っ取り早いようなw
市町村のコミュニティセンターなんかでやっている「公共活動」のほとんどが活動家さんたちの根城になってしまっている現状をみるとますますそう思います。キリスト教教会などの宗教関係の活動も似たようなもんですし...
しかし「公共」化≒効率化/合理化、というベクトルしかなくなっとるらしいのはどうにかならんのかいな。