「誰でも言えるやろこんなん」のbot化

 新聞でも雑誌でも、もちろんテレビのコメンテーターなどでも、いずれメディアの舞台においてはとにかく「誰でも言えるやろこんなん」という範囲での、言わば定型ばかりが垂れ流されている。ひとりひとりその発言の主体は生身として別の個体であったとしても、発されることばやもの言いはあらかじめ打ち合わせたかのようなある範囲におさまっていて、その範囲内での順列組み合わせのような平板さ。それこそ、Twitterなどにおけるbotみたいなものです。*1

 単にそういうステレオタイプ程度のことを伝えるのがメディアの仕事と思われている現実が世間の側にすでにあり、だからこそ、そこに勝手に同調してゆく書き手や送り手の側があり、さらにまたそれらの環境に最適化している読み手の最大公約数のニーズもあり、といった三方入れ子の共犯構造みたいなものがすでに成り立っているからこそのこのような事態、ということがひとまず言えそうです。

 もちろん、めくら1,000人眼あき1,000人というのが世の中の常、いまどきのそれらメディアの生産点で仕事する人がたの中にも「誰でも言えるやろこんなん」と思いつつ日々のルーティンとして割り切ってそれら仕事を廻している人もいるでしょうし、さらにまた、「こんなんが求められてるから」「この程度で構わないその他おおぜい相手の稼業だから」といった多寡のくくり方、日々の仕事の手癖としての諦め方をするのがこういう稼業の多数派なんだ、といったしたり顔の解説もそれなりに見聞きしてきている。*2まあ、それらもいずれ「そういうもん」でもあるのでしょうが、しかしそれでもなお、昨今の状況はそれだけで説明できるものでもなく、どうやら本気で「誰でも言えるやろこんなん」の間尺でものを観たり考えたりしていることが、むしろ現実の大方になっているような気がします。*3

 こういう言論、ことばやもの言いのbot化は、世間の中での立ち位置、経済的な環境や政治的な立場その他、個々に異なる条件を問わない、日本語を母語とする環境においてある種の普遍として起こってきているようです。いずれ日々のルーティンとして、なるべく抵抗なくスムースに仕事を廻してゆくために、発注する側も受ける側もあらかじめ勝手に共有されている「正解」*4を予定調和として淡々と、粛々と型押し生産してゆくことが日々の具体的な作業になっている可能性。何をいまさら、そんなものは昔からあること、そもそもことばやもの言いというのはそのカバーする範囲や有効射程距離が大きくなればなるほど、別の言い方をすれば個別具体の間尺から離れて抽象化されてゆくことで飛び道具としての威力が増せば増すほど、そういう症状を呈するのがある本質だったりするんだから、というもっともらしい意見にも一応の説得力があることを認めるにせよ、それにしても昨今のこれらの症状については、あれこれ言ったり書いたりしているその当人がたに「そういうもの」という自覚からしてなくなっているらしいこと、いやそれ以上に、「そういうもの」をなぞっているに過ぎない彼ら彼女らがなぜか圧倒的に得意げで鼻高々で、それこそドヤ顔全開でいたりすることが何よりいまどき風で不気味だったりします。

 これらの症状、そのようにものを言ったり書いたりしている人たちの質の「劣化」で片づけがち、でもあります。それはまた同時に、そのような「劣化」の現われの集合としての「マスコミ」自体の「劣化」として、ある種の「わかりやすさ」と共に世間に受容されてゆく、そんな「解釈」「説明」のルーティンにもなっている。

 確かに、そのようなことも基本的にあるでしょう。ただ、さらに同時にまた、それら「劣化」という現実に対しては、メディアの生産点、現場の編集者その他も含めた広義の読み手の「読み」の側も、同じ程度に共犯だったりするのかも知れない。少なくともそういう視点、全てを「情報」とひとくくりにして平板かつ単純化された、だからこそその分合理的できれいに見えたり聞こえたりするような水準でだけ眼前の事象を解釈し説明してゆきたがる性癖任せの考えなしのままでは、問題はただの読み手、生身の個体の水準ではそれぞれが「情報」の受け手で消費者でしかあり得ない現実を捨象したままの「人ごと」の「きれいごと」のまま、いつまでも身にしみたないありようのままです。

*1:それは今に始まったことではない、というのも百も承知千も合点、な上での敢えて、なお。

*2:ある時期までのメディアの生産点、「マスコミ」稼業の現場の「良心」というのがあったとして概ねそのような、ギリギリ許容範囲な程度に良質と言っても構わなかったような「わかってやっている」気分というのが、ある一定の範囲で共有されている防波堤になっていました。

*3:そして、それは単にメディアの生産点などだけでなく、ことばとともの言いとがガクモンなり何なりの世間においても、また。

*4:つまり、ポリコレ的許容範囲におさまるようなあれこれ