現在の世相や風俗、〈いま・ここ〉の感覚なんかは、今に限らずおそらくいつの時代、どんな情報環境においても、常に記録なり表現なりからは疎外されとるものなのかも知れない。それが文字/活字であれ映像であれ何であれ。
そういう〈いま・ここ〉を記録や表現に反映なり落とし込むなりすること自体が常に価値というわけでもないはずなんだが、ただ、それは同時に常に市場でもあるような状況になると、商売としてそれら〈いま・ここ〉の動向を捉えようとすることもまた必然的、かつ必須の営みになってくるわけで。
市場である以上、人気に投じることはいつの時代も商売成功、市場に受け入れられるための秘訣である。その人気というのは〈いま・ここ〉の気分や空気、感覚その他の渾然一体、概ね捉えどころのないシロモノである。少なくともそう思われている。だからこそ、それらを記録や表現を介して「わかりやすく」捉えることもまた、熱心に希求されることになる。誰もが簡単に、わかりやすいありようで「人気」がとらえられるのならば、誰も苦労はしない。また、それらをとらえようとする情熱も高まらないだろう。
そのような〈いま・ここ〉をとらえるかたちは、時には小説であり、詩であり、うたでもあり、いずれそのような「ことば」を介した表象であることもあれば、さらにもっと生身のからだ、現前性を活かした刹那的な表現になることもある。さらには写真だの映画映像だの、新たなそれこそ複製技術時代の表現に置きかえられることもある。
だから、〈いま・ここ〉の記録や表現というのも、その現われ方はひとつでもなく、単純なものでもなく、時代によって情報環境のありようによって違う現われ方をするようになる。そういう意味で、少なくともこれまでの〈知〉の側にとってデフォルトのメディアであり、〈知〉を形作ってくる過程で最も重要な役割を果たしてきていた文字/活字の、そのリニアーな感覚に従うことのできる〈いま・ここ〉だけではどうやらなくなっている、かも知れないこと。
あるいはまた、別の方向からも。たとえば古本雑本類のほんの片隅、本文以外でもちょっとしたあとがきだの序文だのも含めてのそういう場所にうっかり書き留められとる固有名詞その他の類が、予期せぬ時、予期せぬ場において〈いま・ここ〉と重ねあわされる瞬間。またその裏返しで、眼前の〈いま・ここ〉の側が、将来に向かって同じように古本雑本その他「記録されてしまったもの」の片隅に、ほんの断片としてちりばめられてゆく過程、もまたこれからあってゆくのだろう、という視線。文字/活字だけでなく写真や動画、音声などまで含めてのそのような媒体は拡大しているのだろうし、将来に向かってまたさらに多様化してゆくのかも知れないけれども、ただそれでも、「記録されてしまったもの」とそれら断片の名詞類、そしてその時代その社会の〈いま・ここ〉の相関というのは、もしかしたらある程度までは基本的に一定なのかも知れない、とか。
なのに、というか、だから、というか、そういう「記録されてしまったもの」の範囲が拡大し、また文字/活字だけでなく画像映像音声その他までも含めた、言わば全感覚的な領域までもカバーしちまうようになってきた〈いま・ここ〉から、それらの媒体を介して「歴史」や「社会」を再編/復元しようとすることのバイアス自体が、未だうまく安定的にとらえられていない憾みがある。