網羅するとかコンプリートするとか、いずれそういう方向での全面スキャンを必須とする/せねばならない、といった戒律めいた縛りについてはどうも半ば本能的に距離を置く習い性が宿って久しいらしく。その代わり限られた素材を繰り返し巻き返しためつすがめつ愛玩するような手癖性癖が人より強いらし。
おたく第一世代的な執着にはむしろその前者的な、自力自前で網羅しコンプリートする/せねばならない、という正義感が一気に増幅されていたような。むろん昨今のような情報環境でないから必然的に力わざ、身体張って距離と時間を稼ぐ根性wが必要だったわけで。初期おたくのマッチョイズムの背景。
自らそうやってジタバタすることを即座に相対化wし冷笑wwすらしながら「(笑)」の精神と共に、でもだからこそのマジメさ誠実さをどこかにほのめかしながら、みっともなくも汗かきベソかきゆがんだ笑顔でくだらないことを必死こいてやり続ける、それがある種の美学orダンディズム的勘違いに、という。
団塊の世代的な「身体/肉体」の解放とは現われ方も位相その他も違い、ズレたところで、でもやっぱりある種の「身体/肉体」への信心というか、それを解放する/したいという方向への希求は確かに80年代気分/思想の根底には横たわっていたんだが。
あまりアモルフに重ねることはしたくないし、しない方がいいとは思うが、大正期の当時のある部分に宿っていたらしい「身体/肉体」に根ざした〈リアル〉への自覚やその先の解放への信心の類と、どこか通じ合うものがあったのかも知れんくらいのことはいまさらながらに振り返りつつ感じるところはある。
おたくの不人情、と、おたくの(隠れた)正義、との密通癒着関係について。
不人情ゆえに、われ熱血す。