ニューアカ東西・雑感

 「ニューアカ」にも実は京都流と東京流みたいな違いはあってな。浅田などは京都学派由来の哲学/思想系界隈のノリ介したシンパや信者のコミュ感がコア層に共有されとったわな。いまだとそうだな、それこそかのシュナ坊などにその残り香みたいなのはちみっと感じんでもなく、な。

 柄谷界隈がそのへんきれいに取り込まれたのも所詮は木曽義仲的な東夷なところを足もと見られた感あったわな。中沢も基本同じで後に京都学派に秋波送ったりしてみたもののこれまた所詮は甲州のイナカもん扱いだったフシは拭えんかったし。京都人文系の公家政治の手癖はいろんな意味で根が深いわなあ。

 西部邁その他を巻き込んだ「中沢事件」にしてもあれ、西部も関係してた山口昌男も共に北海道出身で東大出ながらそれぞれ凶状持ちなわけで、それが頓挫した後始末に京都精華の短大にいた上野千鶴子が押し込まれたあたりも陰謀論的勘ぐりコミで言や東西人文系世間での「政治」が介在しとったわけで、な。

 一方では、それこそ梅棹以来の京都学派由来の人文系のある種の牙城にもなってた民博が結果的に「地域研究」(≒政治学/政策研究の世間だわな、要するに)に主導権奪われちまうことになったあたりもまた、ざっくり言って同じ頃に端を発した過程だったりして、な。

 この先は全く当て推量の無責任になるが、山口ジロリアン程度の愚物(だろう、どう控えめに見ても)が数億規模の科研費の元締めになっとった構造というのもあれ、政治学なり何なりやっこさんの属するムラのありようがそれら人文社会系をめぐる環境の変貌に伴い変質していったのと関わっとるんでないん?

 たまたまその業界でのゼニのバラまき拠点になっとっただけのこと、なんだとは思うが、その程度の御仁を取り巻いて「楽しかったですねえ」(≒「利権おいしかったですねえ」と翻訳可)などと平然と太平楽並べて恥じることのない物件が「学界の俊英」としておこぼれに群がっとったらしいという、な(´ω`)