「僻み」話法、の難儀な陥穽

 新聞やテレビその他マスコミの中の人がたなど「勝ち組」連が自分らの年収や待遇についての自覚がないように見えるのはあれ、単に鈍感というより、それこそ「僻み」話法の裏返しで、世間のやっかみや妬みの類をヘタに喚起しないようそれらについては常に意識の外に置いてるという感じなんでないか、と。

 だからこそ、自分らの仕事ぶりについて何か言われたり指摘されたりしても、その中身以前に即座に「僻み」話法が発動される仕組みになっとるわけで、どちらにしても自分らの置かれている立場やそれに伴う待遇についての穏当な認識は当の本人がたから持たない/持てないようになっとるような気がする。

 同じような意識のからくりは、学者研究者その他インテリ/文化人世間にもあるようで、単に稼ぎやゼニカネ絡みのみならず何かそのポストなり肩書きなりポジションなりがなぜか自明のステイタスだと思うとる度合いに比例して、それらに対して「僻み」話法介した解釈が自動的にされるようになっとるらし。

 TwitterでもSNSでも何でも、いずれそれらの情報環境介して、自分らの仕事ぶりや見られ方など含めて批判なり文句なり中傷なりが玉石混淆雨あられで四六時中飛び交ってるのが知ろうと思えばいくらでも知れるからこそ、自意識防禦のATフィールド的に「僻み」話法が実装されるようにもなるわけで。

 そしてその「僻み」話法は同時にまた、自分と自分らのやっている仕事、さらにはそういう自分らに対する世間の視線を介して穏当な自己認識を持つようになることをも、そのはじめの一歩から妨げるようにもなっているらしく。

 これらはいわゆるリベサヨ界隈に突出して顕著な症状にも見えるけれども、ことの本質はことばヅラ表面上の「リベラル」(でも何でも)話法やしぐさでなく、そういう世間の内側の社会内存在であることを前提として自己認識のからくり自体が、「僻み」話法によって機能しないようになっていることかと。

 そういう界隈に対するいろんな意味での「通じなさ」、何をどう言おうが伝えようとしようが同じ日本語として皆目通じているように見えないあの症状というのも、こういうことばを介しての意味の交換という意思疎通や対話、会話の基本的なありようからして予め阻害されとる構造が悪さしとるように思とる。

 だから、実にマメにエゴサーチかけて自分や自分らの発言その他について情報収集しようとしとらす人がたほど、「僻み」話法の効きを自らどんどんレベルアップしてゆくワヤを仕掛けとらすようなもんで、エゴサすればするほど自己認識も対社会/世間の認識も自閉し膠着したものになってくんだろうな、と。