ネットの「自由」とリテラシー・メモ

 ネットに「真実」なり「事実」なりが、そのものとして落ちてるわけじゃない。転がってるのはそれこそフラットな「情報」なわけで。「真実」でも「事実」でも、自分の脈絡でそれら「情報」を判断して互いに関係づけてゆくことで、そういう場と関係の裡にようやく宿り得るものなんだろう、と。もちろん、個々の「情報」にも、それらが出てくる背景やそれを送り出している側の思惑などがあるんだが、それらも含めてネット空間では「とりあえず」フラットな「情報」でしかない、という前提なり約束ごとが、それこそネットリテラシーwをうまく宿らせ使い回す条件になっているような。

 何てことない、要はそういうフラットな (という約束ごとでモニタに映し出される)「情報」を役に立つように、目的に応じて意味あるように編成してゆくだけのこちら側、つまり「主体」ってやつがまずウソでも設定できていないとあかんわけで。それがないのに文脈こさえようなんて絶対、できるわけもなく。

 個々の「情報」の「信頼性」というのは、それら個々の背景や思惑などをそれぞれが「確かめる」ことをやらないと確認できない――なんかある種の界隈が持ち回る「ネットリテラシー」って、そういうしちめんどくさい「調査/分析」的意味あいでマウンティングのネタにされてきているような気がする。あの津田金とか典型的だと思うが、そういう「調査/分析」的意味あいでマウントかますネタとしての「ネットorメディアリテラシー」ってのは、要は「あんたらシロウトにゃそんなのでけんし、やる時間もないだろうからボクたちプロwに任せてね♪」というビジネス話法でしかないんでね、という。

 それは、リテラシーにもヒエラルキーが自明にある、という発想なわけで、たとえばあの「情弱」なんてもの言いなどともどこかで繋がってるんだろうが、でも、ほんとにそうだろうか、という漠然とした、でも絶対ヘンだからなそれは、という確信めいた懸念は前々からずっとある。そんな「プロ」wでないと実装でけんようなリテラシーが必要じゃないとネットとつきあうのは難しい、ってことになったら、それこそインターネット本来の「開かれた」情報空間だの何だのというすでに陳腐化しかかってる能書きすら、初手からウソだよね、にしかならんだろう、と。

 紙のメディア、文字/活字の本ベースの図書館なり何なりをうまく使いこなせないのが、ネット空間の「情報」をいきなり使いこなすのは、そりゃ難しいとは思う。でも、それはネットのリテラシーが紙のリテラシーとは違う、特別で新しいこれまでとは別の情報集積である、という前提の自明化とは、また別だろう。これまでの情報環境で普通にしらべものなり何なりやる/やれる、その延長線上にネット環境もある、という、考えたら素直に当たり前だと思えるはずの認識が、ネットリテラシーをことさら持ち回って(゚∀゚)アヒャる界隈は持てないみたいなのは、さて、なぜなんだぜ、と。

 たとえば、あの「ソース主義」なんてのは、2chの初期からあったわけで、でもその「ソースは?」という問いは「半年ROMってろ」とある意味セットでもあったわけで。あれは「空気読め」という意味だけで解釈されちまっているようだけど、それだけでもないんじゃないか。ジタバタせずに「半年(じゃなくても)ROMって」じっと眺めてつきあっていたら、それなりのリテラシーみたいなものは普通に宿ってくるもんだからな、という窘め含みの警句みたいな、ネットづきあいの知恵みたいなところも同時にあったはずで。やたらと「ソースは?」を繰り返すような手合いにしても、その「情報」の信頼度を情報単体でなくその他の情報と重ね合わせながらそれなりに何となく悟ってゆくようなところ、あったような気がする。そこには「調査/分析」による「確認」というのと微妙に違うニュアンスも、また確かに宿っていたな、と。