「書けない」ことと「聞けない」こと・メモ

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 文章が「書けない」ことと、話が「聞けない」ことの関係。文脈に即して文章を理解しにくくなっていることと、口頭の話しことばでの話を聞いてその概要をつかむこととに、何か関係がありそうなのは経験的にもわかるような気がするんだが、それは単に文脈が読めないというだけのことなのかどうか、という問い。話を聞いてメモをとる、ノートする、といった間のつながり方についても、こちらが求めているような意味での意識のつながり、身体の感覚の連携などからして、そもそもまずうまく実感体感されていないのかも、とずっと疑いながら試行錯誤しているのだが。

 日常的な「おしゃべり」をしなくなっている分、話しことばを「聞く」という経験自体が薄くなっているとしたら、ことばが作り出してゆく意味を、耳を介した音から変換して理解する能力もこれまでとは違ってきている可能性はあるわけで。それはたとえば、以前から触れている音楽の聴き方、「歌詞」の意味を聞き取ら/れない、普通の人が普通に音楽を聴く場合、歌詞は音楽を形作っている要素として重要ではなくなってきている、ということなどとも繋がってくるかも知れない。*2

 たとえば、「朗読」ということをしなくなったこと。文字を眼で見て、それを自分の生身を介して発声して「読んで」*3音に変換して、それを自分の耳で聞いて、という経路でのフィードバックによる「言葉-意味」の自分自身への宿り方の経験が、日常的にある程度自然に蓄積されるような機会が少なくなったらしいことと、「言葉」を理解してゆく能力との関係。もちろん、音楽の歌詞は文章、特に散文のような文脈を求めるものというより、いわゆる「詩≒うた」的言語の類だろうから理解の意味も違ってくるが、それでも耳から音として入ってくる言葉を自分の裡で意味に変換してわかろうとする経路のありようが変わってきていれば、音楽の聴き方も変わるだろうと。

 話しことばを耳にして、いわゆる意味と紐付けて理解しようとする経路と同時に、何かイメージとして映像や場面として立ち上がる経路があるような気はずっとしている。で、後者の経路がどんどん鋭敏になって/させられてゆくような情報環境で育ってきたことによる「わかる」の成り立ちが違ってきている可能性。このへんはそれこそラノベの読み/読まれ方、の問題とも関わってきそうな話で、そういう映像や場面その他いわゆるイメージ的な喚起力が鋭敏になって、その分これまでのような散文的文脈に即した意味の引き出しをしなく/できなくなっている、そういういまどき顕著になってきているように思える「読み」前提の表現かも、という弊社若い衆の持ち出してきた仮説とも繋がってくるかも。*4確か、久美沙織が似たようなことすでに指摘しとったようだし、それ以外でも言われてきてはいるんだろうけど、こういう「読み」のありようが異なってきていることと情報環境との関係は、日本語環境での人文社会系の〈知〉のありようの煮崩れ具合を相手どって考えようとする場合不可欠の視点になるかと。

*1:承前気味に。というか、前々からの大きめのお題の一連のメモ的に。話しことばと書きことば、その間にある生身含めた「自分」の内側での意味(「情報」ではない、おそらく)の走り具合やその間の逸失されるものその他はどういうものなん? という、例によってのとりとめない問い。

*2:いわゆる「ポエム」にうっかり引き寄せられてしまうココロのありよう、などともこのへんからんできそうではあり。また、これも以前から言及している、浪花節は(ある時期から)眼をつぶって聴くものになっていた(らしい)件、などとも。もちろん、戦後/昭和なおっさんおばはんたちはなぜ、カラオケで歌う時に眼をつぶって歌いがちなのか、問題とも。浪漫主義的自意識&イメージの脳内立ち上がり方とその来歴について。

*3:同じ「読む」でも意味が何層かに重なっているような気はする、為念。

*4:このあたりはここ2年ほど、若い衆に牽かれつつラノベ詣り、をしてきた功徳でもあるらし。