アニメのおにゃのこのこと・メモ

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 この「女の子主人公アニメがない」事案がどうにもオタ側とふぇみ側でこじれる理由を自分なりに考えてみた。


 まず前提として、現在は女の子が主役として活躍する作品は山のようにあり、原作や監督脚本に女性が関わってる作品も多い。深夜枠だと男が主人公の作品より体感的には多い気もする。それら女性主人公の作品では(近年の傾向として)男女恋愛が描かれなかったり、そもそも男性が殆ど登場しなかったりする事も珍しくないし、構造的に女性が主体的に活躍するようになってる。男性に依存せず主体的に運命を切り開く女性像という意味では、むしろふぇみさん達の理想ですらありうる。


 以前どっかのふぇみさんが「女性だけの街があったらきっと素晴らしいんだろうなぁ」と言って色々突っ込み食らって燃えたが、ラブライブとかまさにその「女性だけの街」状態らしいし。(うらら迷路帖とかいうのもあったな…)描かれる内容をふぇみ的に肯定できる作品も探せばいくらでもあるはず。


 そういうわけでオタ側からは「いくらでもあるだろ」という話になるが、ふぇみ側が問題とするのは「性的消費」。要するに、「動機が不純だからイカン」という話になる。実際、近年女性主人公の作品が増えまくってるのは、「そっちの方が萌えるから・エロいから」というのも確実にある。要は(多くは男性)オタクの「少女が格好良く活躍する様を眺めて楽しみたい」「それと処女じゃなきゃ許さん」という欲望に(それが全てではないにせよ)応えた結果だろう。そういう意味では確かに動機としてはまぁ不純かもしれんが、それらインコレクトな欲望を燃料にして、ふぇみ的文脈からも肯定的に評価する余地のある作品も出力されるというある種のこじれた状況がある。「不純」な入力から「正しい」出力。オタの欲望と時代の良識の共棲(共犯)関係がそこに。


 話がこじれるのは、多分この不純な入力から正しい出力というメカニズムゆえじゃないかという気がする。オタ側は「宇宙よりも遠い場所」「けいおん」などの作品の素晴らしさを語り、ふぇみ側はそれら作品にも横たわる「処女の美少女だけを愛でていたい」という欲望を問題視する。


 先日も呟いたが、身も蓋もない結論としては女性が主体的に活躍する作品が多いのはそれが欲望を刺激するからだ。だからそういう作品を望めば望むほど(ふぇみ側が嫌うであろう)萌オタに逆説的に媚びる作品になってしまう。なんとも皮肉な話かもしれんけど、そういう構図も確実にある。


 ただ、これら萌オタ向けの女性主人公アニメ、楽しんでるのは別に男オタだけではないというのもある。けいおんにせよラブライブにせよ女性ファンは実際に多いし、スタッフにだって女性は多く関わってるわけで、「男オタが美少女を視姦するため”だけ”の作品」という認識はさすがに単純すぎると思う。もしどうしても男性萌オタの存在が我慢ならないなら、もう少女漫画原作のラブコメとか、あるいはBLでも見ててくれや、と思っていた所、「性的消費だから駄目」とか言ってた人が最近「かぐや様は告らせたい」にハマったと聞いて嗚呼…となった。


 それと、「不純な動機だから駄目」「正しい欲望をもちましょう」とかもし言ってくるとしたら、「何で娯楽を楽しむのにそこまで要求されなきゃならんのだ、何様だお前」という話で終わる。動機の不純さを問題視するなら、殺人ミステリーや戦争映画は美少女萌えアニメの比ではないくらい不純。とにかく、男性萌オタの存在が(本人にとってはうざったかろうと)ある程度割り切ってさえもらえれば、今日日女性が活躍するアニメなんていくらでもあるという話だった。どうしても男性萌オタが許せんなら、それこそラブライブの沼津みたいな女性だけの街にでも引きこもるべし。


 最後に一介のオタとして心得ておきたいのは、作品の良し悪しとその内容の正しさ正しくなさはまた別だという事。作品を「時代の良識に適合してるから」良い、あるいは「適合してないから」価値がないとか、そういう評価基準のみに陥るのは絶対にまずい。それだと「性的消費だから駄目」と同じ穴の貉。

*1:その後「性的消費」というもの言い自体がもう、さまざまな矛盾やワヤを一気に露呈されるターミナル的なポイントになっていったフシもあり、そういう意味でも簡潔に問題点を点綴していると思うので、備忘録として。