「あの子は就活やってるけど、私はパパ活。どちらも同じ活動だよ」とか思い込んでる若い女とかいそうだけど、それ同じじゃないと思うよ。オジサンは。
— 斉藤久典 (@saitohisanori) 2019年1月28日
昨今言われるようになっている「パパ活」というのは、かつての「援交」(うわ、ATOK一発変換……) と地続きなのは言うまでもないでしょうが、自らの性的身体のありようを金銭に交換すること、を本邦ポンニチ女性がたがさて、どのように認識し理解し、自ら意味づけて落ち着かせようとしてきたのか、という「歴史」の過程にプロットしようとした場合、いろいろとその背後にココロやキモチの変遷もまたうかがえるというもので。
たとえば、敗戦後に限ってもかの「パンパン」と呼ばれた一群のオンナの人がた、あるいはそれらの世相風俗と地続きに確実に存在していたはずの「アプレ」世代の立ち居振る舞いの個別具体の細部と、近年のその「援交」を境としたいまどき女性らの実存とを素朴に引き比べてみるだけでも、そこには半世紀から70年という時間の横たわり方とそれに応じた変わるものと変わらないものとが入れ子になって含まれているくらいのことは、まずわからざるを得ないわけで。
パンパンは主に進駐軍相手の商売オンナという理解が一般的でしたが、田村泰次郎や坂口安吾といった「文学」経由の意味づけ箔付けは言うに及ばず、いずれ興味本位の世相風俗ネタとして当時のカストリ雑誌やら何やらに書き留められた彼女らは、改めて静かに読み直してみるとそれなりの共同性、間違いなく当時を生きていた生身の身体の「関係」と「場」を介した「仲間」との関係で「自分」を支えていたらしいことは最低限、浮かび上がってもくるわけで。
「彼女らの世界にも一定区域をなわ張りとする女親分があり、これが制裁の暴行を加える仕組になつている……各地区のなわ張りとその親分は池袋駅では「ブクロの女」で通り駅の西・東両口の二派に分れ総数約八十名、親分は西口市川とし子、東口が岸本フミ、上野駅の場合には「ノガミの女」と称し約四百名、親分は五十嵐アイ子と田中ミワ子その他有楽町、えびす、品川、中野各駅や浅草公園が大きななわ張り……」(『毎日新聞』1947年10月31日)」
「新宿の焼鳥屋の女が客とホテルにしけこんだのを「縄ばり荒しだ!」と脅かし、眼のフチが青く腫れ上がるほどのリンチを加え、五千両ふんだくつたるかどにより、十日四谷署にパクられたパンパン界の大立者、源氏名チャイナこと森永良子、ジヤッキーこと醍醐千代子、マー坊こと西尾芳子のお三方……」(近藤日出造「やァ今日は」『讀賣新聞』1950年4月12日)
●●子、という名前が多いことが物語る何ものか。坂口安吾が記していたように、当時パンパンに「身を堕とした」とされたオンナたちは明らかにマチの、戦前昭和初期のモダニズムの洗礼を良くも悪くも受けていた連中で、それは同じく「身体を売る」商売として同じ時代に併存していた「遊郭」に代表されるある種連綿と続いてきていた「管理売春」のありように規定された同性たちとはどこか切断された、「自由」な「個」としてのたたずまいを間違いなく身にはらんでそこにいたらしく。*2
ひるがえって、「援交」から「パパ活」に至る道筋にそのような「関係」や「場」は稀薄になっていますし、彼女たちの間の自治や連帯の気配はさらに感じ取りにくい。「援交」「パパ活」に「仲間」なし、なのであって、それは同じ個体であってもまわりとの「関係」や「場」との兼ね合いで輪郭が定まっているような「個」ではなく、文字通りあらかじめの単体、スタンドアロンの生身としての「個」としてだけ、むき出しに市場に、そしてそれをドライヴしている経済に紐付けられているようなものだったりするようで。
だからこその「活動」というもの言い、そのような単体の「個」がむき出しにそれぞれ市場と経済のからくりの中で配置され、蠢いている、そのようなイメージの上での「●●活」という現在。だからそれは昨今の「就活」とも当然、そのようなありようとしては共通する「個」の営みになっているということなのだろう、と。
*1:思想の科学研究会・編『「戦後派(アプレゲール)の研究』(養徳社、1951年)より適宜、抜粋。黎明期思想の科学研究会の、当時の〈いま・ここ〉に対する素朴で初々しい関心ぶりが健気で好ましい一冊ではあり。
*2:それはつまり「遊郭」のオンナたちは農村部の、つまり「イナカ」の娘たちという属性が否応なくまつわりついているものだった、ということでもあり。このへん、明治末から大正初期にかけての浅草十二階下に蝟集するようになっていた当時のオンナたちのたたずまいや、あるいは長谷川伸などがさっと一筆描きに切り取ってみせていた明治初年の開港場ヨコハマの「らしゃめん」の「異彩」などにも通じる何ものか、なはずで。