橋本治の遺したことば

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 橋本治の絶筆、ということらしい。

 「枯れる」というよりも「静かに衰えてゆきつつある」といった感じのカドの取れ方、書き手の活力の振幅が少なくなってきている印象の文章だな、と思って、でもそんなに丁寧に追いかけていたわけでもなかったから、それはそれで放っておいていた。そういうつきあい方しかしない、できないまま過していた、というのが正直なところだった、ここ数年あまりの橋本治とのつきあい方というのは。

 自分が生きている〈いま・ここ〉の地点から、世間も世界も、そして過去も歴史も、見通してゆくのをもう当たり前のように前提にしていて、そしてその上で〈そこから先〉も同じように見通してゆこうとして、だから〈いま・ここ〉の側にその見通しから逆算した「説教」を始める、というのが彼のもう長い間、身についた書きもの作法だった。それを「エッセイ」と呼ぶか「コラム」と呼ぶか「随筆」と呼ぶか、そんなものはどうでもいい。彼自身が「小説」と初手から決め打ちして文字にしようとしていたもの「以外」の書きもの――それこそが書き手としての橋本治の仕事の「本体」だったと思うのだが、それらはそういう「説教」に還元されてゆく道具立てや約束ごとまでひっくるめての独特の作法が基本設定になっていた。

 で、それは最後まで変わっていない。その「変わっていない」ことの意味については、功罪含めてまた、少し時間をおいてからでないとほんとには言葉にできないのだろう、といまは感じている。

 西城秀樹が死んだ。六十三歳だった――というニュースを聞いたら、朝丘雪路が死んだ、星由里子が死んだというニュースも続いて、テレビの『徹子の部屋』は追悼番組が立て続けになった。なんでこんなに人が死ぬんだろうと思ったら、平成三十年の五月は、平成が終わる「最後の一年」に突入した時期だった。今上天皇の退位はあらかじめ決まっていて、なんとなく平成は自動的に終わるもんだと思っていたけれど、人が立て続けに死んで行くニュースに接して、改めて「あ、一つの時代が終わるんだ」と思った。


 七年前、東日本大震災が起こった二〇一一年にも人が死んだ。有名人が立て続けに死んだというのではなくて、年老いた親の世代が死んで行った。私の父親が死んだ。友人の父親、あるいは母親が死んだ。やたらと葬式の通知、年賀状辞退の通知が届いた。「なんか、今年葬式多くない?」と友達に言ったら、「多いよね」という答が返って来た。


 意外と人は「時代の終わり」というものに敏感なのかもしれない。大地震と大津波原発事故があって、何万人もの人間がほぼ一瞬にして命を奪われた。そこから再スタートするための、「第二の戦後」だと言う人もいた。それが「戦後」なら、多くの人の死がその下にはある。どんな理由を付けても、東日本大震災が「一つの時代の終わりを示すものである」ということには(多分)ならないだろう。でも、その年に地震津波の直接的な被害に遭わずに、「寿命」という形で死んで行った人達は、何万人もの人の死、大地の浸蝕と汚染に「時代の終わり」を感じ取って、「終わった」と思って死んで行ったんじゃないのかと、思う。


 多分、人はどこかで自分が生きている時代と一体化している。だから、昭和の終わり頃に、実に多くの著名人が死んで行ったことを思い出す。


 昭和天皇崩御の一九八九年、矢継ぎ早とでも言いたいような具合に、大物の著名人が死んで行った。一部だが、天皇崩御の一月後に手塚治虫が死に、翌月には東急の五島昇、翌月には色川武大松下幸之助、五月には春日一幸阿部昭、六月になって美空ひばり、二世尾上松緑、七月は辰巳柳太郎、森敦、八月に矢内原伊作古関裕而、九月は谷川徹三、一月おいて十一月が松田優作、十二月が開高健。今となっては「誰、この人?」と言われそうな人も多いが、死んだ時は「え?! あの人も死んだの?」と言われるような大物達だった。


 昭和天皇の享年は八十七で、当時としては(そして今でも多分)高齢だった。しかしだからと言って、昭和という時代の終わりと共に世を去った人達がすべて高齢だったというわけではない。手塚治虫は六十歳、美空ひばりは五十二歳で死に、松田優作は四十歳だった。当時は「早過ぎる死」のように思われた。しかし、今になって引いて見れば、この人達は自分の仕事をやり遂げて死んだのだ。


 やり遂げて、その年齢で死んだ。時代を担い、五十代六十代で死んで行った昭和の人達を思うと、その死がなんだか潔く思える。私はもう七十になった。七十過ぎてまで現役作家をやっている人は、昭和の頃にそうそういなかった。それ以前に、ある程度の地位を確保して、そのまま「えらい隠居」みたいな感じで生きていた。私なんか、もう才能が涸れて「どうしたらいいのか分からない」状態になっていても不思議はないのに、どういうわけか、頭は若い。「いつまで若いんだろう?」と思うと、少しいやになる。


 二度の脳梗塞を患い、苦しいリハビリに励んで、でも六十三歳の西城秀樹は「ヤングマン」だった。無理して若振っているのではなく、六十三歳でも「ヤングマン」のままでいた。平成がスタートした時、西城秀樹は三十三歳だった。それから三十年たっても、彼はさして変わらない。彼だけではない。彼と共に「新御三家」と言われた野口五郎郷ひろみも、六十を過ぎて老いてはいない。
 平成の三十年は不思議な時間だ。多くの人があまり年を取らない。たいしたことのない芸能人が、古くからいるという理由だけで「大御所」と呼ばれる。年を取らず、成熟もしない。昔の時間だけがただ続いている。平成の時代を輝かせた「平成のスター」である安室奈美恵小室哲哉は、平成が終わる前に消えようとしている。平成は短命だが昭和は長い、というのではないだろう。昭和は、その後の「終わり」が見えなくてまださまよっている――としか思えない。


 三十年という期間がどれくらいかと言えば、終戦の一九四五年からオイルショックで経済がマイナス成長を記録する一九七五年までが三十年。その前年に東京タワーが完成し、年が明ければ皇太子時代の現天皇の結婚式があり、豊かさへスタートする一九五九年からバブルの一九八九年までが三十年。三十年は「そういう期間」だ。( ノД`) 「平成の三十年は不思議な時間だ。多くの人があまり年を取らない。たいしたことのない芸能人が、古くからいるという理由だけで「大御所」と呼ばれる。年を取らず、成熟もしない。昔の時間だけがただ続いている。

 世間と「芸能」の関係がそれまでと大きく変わってしまった、違う言い方をするなら、世間が「芸能」をそれまでのように必要としなくなった、そんなものと世間とが切実に、のっぴきならない関係で共に仲良しで日々をつむいでいた、そういう時代のありよう社会の状態がすでに違うものになったってことも。

 橋本治の「効き」が悪くなった、あるいは「効き」が見えなくなり、何よりその「効き」が必要ないものに思えるようになった、ってあたりの事情も、もしかしたらこのへんにからんどるのかも知れん、とふと。要検討お題として。

 それは、生身の身体のありようと世間なり「社会」なりとのつながり方が、それまでと違ってきたという面もおそらくあるような。だからあの文体の「効き」が悪くなった、と。言葉やもの言い含めて、書かれた文章と書き手の身体(性)、読み手のそれを介した「社会」との間に構築される関係性、その他。

 トシを喰うという感覚を自然に持てなくなった、いつまでも「若い」という感覚が無理にでなく自然に当たり前になってきている異常さ。そういう30年間だったという「平成」の、いわゆる「歴史」との乖離具合。

 その時代を実際に中核として支え生きていた人がたが亡くなり尽くしたところから「歴史」が始まるのだとしたら、「昭和」も、「戦後」の昭和でさえももうそろそろ「歴史」に織り込まれつつあるのだろうが、身体を見失った社会の変容の中でうまく「歴史」になれなくなりつつあるのかも、とかいろいろと。

 昭和の終わりに二十歳だった人がたも、今や五十歳なんだわなあ。

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*1:事実上の遺稿、だったという話ではあった。

*2:以下は凍結されたdada氏のtweetだった、為念。下書きのハコに待避しておいたからだろうか、一部だけ残っている断片はこんなの(´・ω・)つ「おそらく、BIは進次郎なり橋下なりが1人7~8万(社会保険料とのバーターならそんなもんでしょ)でぶち上げて、4人家族で30万の夢の制度みたいに右も左もマスコミも大絶賛したあげく、最終的に財源がない言い始めて4万5千円くらいのカスな… 」