TSUTAYAと吉野家・メモ


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 TSUTAYA化、とひとまず呼んでみる。あの餃子の王将「でさえも」もはや抗えなくなっている何ものか、として。*1

 ショッピングモールなどからカフェその他の商業施設、主として接客対応を必須とするような端末だけれども、そこに現出される空間のありようを介して拡散浸透していった最大公約数的に望ましい、満足すべき、「癒される」感覚や美的価値観とそれを先廻りしながら受け止めてくれる空間の文法。それは今や単にそのような公共の空間のみならず、おそらくはホテルやマンションなどの半径「個」の身の丈の日常の住空間、いわゆる私的生活の宿る空間にまで通じる広汎な過程。もちろん「ロードサイド文化」だの「郊外化」だのといった術語である時期からこっち、本邦でもあれこれ取り沙汰されてきていた事象の一環ではあるのだけれども、どうやらそれはもはやそのような風景として以上に、何かより大きな動きが浸潤してゆく過程の現われとしても、ある種の「植民地化」にもなにか等しく。*2

 「王将」などは昨今のファストフードのうちでもとりわけ「土着性」の色濃い「ニッポン的」なそれ、のはずで、それ故にそれらはこういうTSUTAYA化とは最も縁遠いもののはず、でもあったのが昨今、もうものの見事に裏切られてゆく現在。

 かつてならばこういう場合にまず浮かぶのは「吉野家」で、そこで売られているのは「牛丼」で、それらのコンボで喚起されるイメージは善し悪し好悪別にして、確かに何かのイメージ、身体的で官能的ですらあるように何ものかを確実に宿したものを否応なく立ち上がらせてくるものではあったはず。でもそれはこのところだとまるで別になり、たとえばあれだけ炎上した「牛丼福祉論」においてもそこにはすでに吉野家ではなくすき屋が想定されていたように、「牛丼」からもそれを外食として売りさばく「吉野家」のような店や業態からも、かつてはまだあったような「土着性」も「ニッポン的」も何もかもフラットに平等に均質になめされ見失われてただの現在を構成する意匠にすぎなくなり、だからこちらもわざわざそうと意識するほどのこともなくなり、そういう意味ではなるほど、「夜明けまぎわの吉野家では」という冒頭のワンフレーズ一発で同時代のインテリ知識人文化人界隈のしちめんどくさいこじれた自意識を出会い頭に蹴り上げることになったあの「狼になりたい」(1979年)などもうとっくにただの音源、ダウンロード一発250円也の「コンテンツ」に過ぎなくなっているのも必定ということで。

【古市】なるほど、すき家はいいですよね。牛丼やファストフードのチェーンは、じつは日本型の福祉の1つだと思います。北欧は高い税金を払って学費無料や低料金の医療を実現しています。ただ、労働規制が強く最低賃金が高いから、中華のランチを2人で食べて1万円くらいかかっちゃう。一方、日本は北欧型の福祉社会ではないけれど、すごく安いランチや洋服があって、あまりお金をかけずに暮らしていけます。つまり日本では企業がサービスという形で福祉を実現しているともいえる。http://president.jp/articles/-/11364?page=4*3

 思えば「吉野家」はある時期まで、確かに何ものかの象徴ではあり得ていた。ことさらにそうと意識することはなくても、「吉野家」の「牛丼」というのは、それ以前だとたとえば「ラーメン」であったり、その後は「ほか弁」だったりしたような、そういう決してきらびやかでオシャレで光のあたる「顕教」としての同時代のもの言いの脈絡には決してそのままぬけぬけと現われることのない、現われるとしたら必ず何かめんどくさくこじれた意識の昏がりをうしろに従えながらでしか眼前化しない、そんな形象の系譜の末尾の現在にしっかりと立ちはだかっていた。だからこそ、あの「吉野家コピペ」のような比類無き破壊力を伴うイメージ喚起力をうっかり利した「詩(うた)」もまた名無しの正義の挿話の裡に未だ記憶されていたりもするわけで。

昨日、近所の吉野家行ったんです。吉野家
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、150円引き、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、150円引き如きで普段来てない吉野家に来てんじゃねーよ、ボケが。
150円だよ、150円。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で吉野家か。おめでてーな。
よーしパパ特盛頼んじゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、150円やるからその席空けろと。
吉野家ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
Uの字テーブルの向かいに座った奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと座れたかと思ったら、隣の奴が、大盛つゆだくで、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、つゆだくなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、つゆだくで、だ。
お前は本当につゆだくを食いたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい
お前、つゆだくって言いたいだけちゃうんかと。
吉野家通の俺から言わせてもらえば今、吉野家通の間での最新流行はやっぱり、
ねぎだく、これだね。
大盛りねぎだくギョク。これが通の頼み方。
ねぎだくってのはねぎが多めに入ってる。そん代わり肉が少なめ。これ。
で、それに大盛りギョク(玉子)。これ最強。
しかしこれを頼むと次から店員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、牛鮭定食でも食ってなさいってこった
*4

 吉野家TSUTAYA化することは、おそらくない。TSUTAYA化に抵抗するから?  違う。もはやそうする必要もなくなっているから。してもしなくても変わらなくなっているからだ。もはや吉野家すき家とすんなり互換できるものであり、それは同じ牛丼を商う外食チェーンとしても互換できるし、そしてその先、王将ともいきなり!ステーキともいくらでも入れ替えることのできる「コンテンツ」になっている。王将がTSUTAYA化したように、何かのはずみで吉野家TSUTAYA化しようと思えばいくらでもできるだろう。だがそれは今のロードサイド的「食」の「コンテンツ」消費のモードにおいての普遍的なパッケージの文法にすぎないのであり、吉野家だから、王将だから、という個々のブランドや業態、ビジネス展開の「違い」に根ざした何らかの「戦略」として選択されるようなものではなくなっている。

 郊外の片側三車線のバイパス沿いに展開するようになったら、吉野家すき屋も王将も、ガストも丸亀製麺も宮本ななしもみんな同じこと、TSUTAYA化する/されることはいつでもできるようになっている。盛り場の駅前、夜半近くの脂まみれの空気の中、細長いビルの1階の隅に透過光オレンジの看板を光らせているあの吉野家はもう、同時代の意識の重心のかかる実存としての姿を静かに消しつつある。「化粧のはげかけたシティガール」も「ベイビーフェイスの狼たち」もそこにはいなくなり、どれも同じような形の軽自動車を転がすようになった彼らの末裔も、他愛なく屈託なくTSUTAYAの駐車場に群れ集まってきては、スタバのなんちゃらフラペチーノだのを器用に注文している。

 先の弘前の話、前世紀末、大きなユニクロが出来てて向かいにビブレ(イオンみたいなもの)が合って、いま何かと話題になるイオンとそのあれやこれや、を体現していていて、逆説的に時代を先取りしてたってことになるなあ。でも、古着もCDも本も、いやぁ当時の平均的大学生が好きだったモノは仙台が、さらに圧倒的に東京が充実してて、そこが「文化資本格差」としてあったのかもしれない。


 言うても弘前には丸善があり、それなりに文化的な街で、人口per headでのフレンチやイタリアン、衣服にかける金額など日本一だし、実際、地産地消イタリアンの走り、オステリア・ディ・サッスィーノを始め名店が多いのだが、だがしかし、資本力がかき集める宝石から味噌糞まで、と選別されたマスターピースと、ある時点までは平衡を取れるのだが、何処かで前者が圧倒的物量で攻め立て「ゴミの中にお宝がある」などいい、マスターピースを正当に扱えなくなってるからこそTSUTAYAなりビレバンなりが「ノ」して来とるんやないかなと。

*5

*1:オサレ化してるのはTSUTAYAでなく「蔦屋書店」ブランドなのだというツッコミも入るだろうが、やはりここは「TSUTAYA」の字ヅラでないとけったくそ悪さの喚起度合いが違ってくる。

*2:「個」と「個室」の関係についての歴史民俗的文脈からの考察というのはずいぶん昔、拙いながらも喰いつこうとしていたお題ではあり。http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/19900313/p1d.hatena.ne.jp

*3:「牛丼福祉論」の震源地はこちら。president.jp もちろんさっそくまとめられたりしとったわけで。togetter.com

*4:派生的に幾多の本歌取りめいたヴァージョンが簇生していったことも含めて、すでに「おはなし」である。 http://www.geocities.co.jp/Playtown-King/2754/2ch/buki-7.htmwww.geocities.co.jp

*5:「ロードサイド」の風景を歴史や文化、社会の脈絡で意味づけようとする仕事は、やはり30年以上前の北米、アメリカの古本屋の店頭や図書館の隅で出喰わしたものだった。そういう〈いま・ここ〉とのつきあい方、〈知〉の手もとで抑え込んでゆくやり口があるんだ、という眼の開かれ方はしかし、その後の本邦日本語環境でのそれら「郊外」論「ロードサイド」文化論などの流れからはついぞ感じることのできないまま、今に至っている。

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