「読む」についてもうひとつ思い出話をします。僕の大学院の先生は猛烈に「読む」にうるさい人でした。授業では学生がレポーターになるんだけど、もう全然進ませてもらえないの、突っ込み入れられまくりで。90分x2で1パラグラフしか進めない、なんてよくあった
— アニ (@gorotaku) 2019年2月1日
で、僕の後輩で同じ授業に出てた奴が、その先生のやり方にすごく反抗してたんですね。「あんなの意味ないですよ」「あんな風に読んでも自分の研究いつまで経ってもできないじゃないですか」などなど言いながら。
— アニ (@gorotaku) 2019年2月1日
でもその後輩、大学院卒業して教える側になって、「気が付いたらあの先生と同じこと授業でやってるんですよ!だって学生が読めないんだもの!何なんだこれは!ふざけるな、と!」とどこに向いているのかよくわからない憤懣を述べておりました
— アニ (@gorotaku) 2019年2月1日
「読む」をめぐるこのような作法の継承、伝承のあり方もまた、もはやこれから先、このように牧歌的な挿話と共に語り継がれて教訓化してゆくこと自体、もう難しくなってきているのかも知れないと思う。たとえば、「講読」あるいはさらに「精読」といった一連の言い方にはらまれていたある種の職人的な偏執、どんどん一点に収斂してゆくような意識の絞られ方といった部分も含めて、そのような「読む」がもたらす効果や結果についての信心や信頼からそもそも揺らぎ始めているのが、本邦日本語環境での人文系の現場だったりするらしく。
ノートをとりながら「読む」、そのような読書ノートを元の本一冊について何冊も作ってゆくような読み方は、戦前の旧制高校生の記録などにすでに出てくるものだが、それらが戦後の教育環境でどのように継承され、あるいは形骸化していったのか、といった「歴史」についても、精神史的な意味から掘り起こして脈絡だけでも記述しておく必要があるのだろうと思う。
*1:親の心子知らず、あるいは、孝行のしたい時に親はなし、などとある意味同工異曲の「あるある」挿話ではあるだろうものの。