電博が人生のゴールという人たち・メモ

 こういう人たちはいつ頃からそうまで当たり前に大学に棲息するようになっていたのだろう、と。「いい会社」に就職したい、安定した大企業で働きたい、といった意味だけでなく、そしてそれらがかつての重厚長大系企業でなく、銀行金融証券系でもなく、「電通博報堂」であるようなまさに「電博」とくくられるような三次産業の王者として君臨するようになったあたりを初手から標的にしているような、そういう目的意識にとぎすまされた若い人たち、という意味で。

 例によっての自分ごとから振り返ってみるしかないのだけれども、芝居に首突っ込んでいた仲間のひとりに、何が何でも広告代理店に行きたいと血道をあげているのがいた。まわりにそう公言していたわけでもなく、何よりある時期までは役者としてそれなりの活動をしていたような人間だった。水戸の出身で確か二浪くらいしていたかも知れない、見てくれは間違いなくいいオトコで、ガタイも筋肉質でスマートで、今なら「イケメン」と呼ばれて当然のカッコよさ。と言って当時のこと、まだうわついたチャラい身ぶりは身につくわけもなく、また根が水戸っぽの柔道取りだったとかの、まあ「硬派」系だった。それがどうして大隈裏の芝居小屋なんかにまぎれこんできたのかよくわからなかったが、自分などとも案外に気はあって、一緒の舞台もつとめたことがあるし、役者としての彼を演出したこともあった。

 当時の学生芝居の界隈のこと、就職ということを真剣に考えているような連中はまずいない場だったから、その彼が博報堂に何が何でも入りたいと七転八倒していることを知ったのは、彼が胃潰瘍か何かで病院に入院して手術をし、そのあたりから芝居の現場から離れるようになった、その後のことだった。二浪していたことを考えたら就職を本気で考えるのはあたりまえなのだが、当時の自分たちのまわりの空気はそんなことすら考えの外で、そうか、こいつはそういうマジメなカタギになるようなやつだったんだな、という程度の理解でしかなかったように思う。

 確か面接でいいところまでいったか何かで、彼としても期待していたらしかったが、不運にもその最終選考のあたりで選に漏れたとのことでいたく落ち込んで悩んでいた。ただ、そこからどこをどう運動したのか、面接担当に何か想定外の働きかけをなりふり構わず行い、それが奏功して結局、博報堂に採用されることになったと聞いた。聞いた、というのは彼自身がその武勇伝を、特に大袈裟にでもなく素朴に淡々と、ああいうのが水戸っぽらしいというのか、そういう素朴さ純朴さでうれしそうに語ってみせる場に居合わせたことがあったので知ったので、その時も、ああそうか、よかったなあ、という以上の感慨は抱かなかった。それは別にこちとらが世間知らずだったというだけでもなく、たとえ電博であってもその程度、普通の企業と同じような視線でしか見られていなかったということで、おそらく当時1980年の東京の大学生の最大公約数な「就職」「会社」意識としても、そうズレたものではなかったのではないだろうか。

 彼は後に、相も変わらず芝居にしがらんでいて手打ちの公演を続けていたかつての仲間のこちとらなどにも、割と律儀に舞台を観に来てくれて、それなりの感想やダメ出しなども如才なくやってくれて、芝居の現場にいた者としての「違い」をなにげなく示してくれてもいた。その頃から世間に露わに見え始めていたギョーカイ風を特に吹かせるわけでもなく、派手な言動をするわけでもなく、ただそれでも何年かするうちにはそれなりの臭みを口調や身のこなしにまつわらせるようにはなっていたけれども、そのうちにそういうつきあいの視界からフェイドアウトしていった。二浪していたからもう60歳越えで子会社にでも転出していて悠々自適、消息が絶える前には雑誌の仕事をしていると聞いていたが、その後世紀末から今世紀にかけての疾風怒濤の時代、果してどんな仕事を博報堂でしていったのか知らないし、おそらくもう邂逅する機会もないままだろうが、冒頭言われていたような「電通博報堂に入るのが人生のゴールみたいな人たち」で充満するようになっていったその後の時代とどうつきあっていったのか、ちょっと興味がないわけでもない。

 まあ、そんなことはどうでもいい。80年代が深まってゆくに連れてそこら中で猖獗をきわめるようになっていったはずの、そのような「電通博報堂に入るのが人生のゴールみたいな人たち」にとっての、その「知識や芸術や文化」というのは、それ以前の大学生にとっての「知識や芸術や文化」とどう違っていたのか、ひとまずそこがこの場でのお題になる。「就活のときに切り捨てられる「小数」でしかない」といみじくもこのツイ主の表現する、そういうもの、の内実。そしてもちろん、そうなっていった過程の変数としての、「就活」自体の意味あいの変遷なども共に。

 「アイテム」といったもの言いが自分には同時に思い浮かぶ。あるいは「カタログ」や「スペック」なども、また。「知識や芸術や文化」が一律にそれら「アイテム」や「スペック」としてしかつきあってもらえなくなっていった過程。かけがえのない人格陶冶のための教養としてのそれらではなく、人格だの生身の主体性などと「ひとまず別なところ」に想定されるようになった「カタログ」の字ヅラに並ぶ「アイテム」「スペック」としての記号群。TPOに応じて服を選び、身ぶりも整えるように、そのための素材としての「知識や芸術や文化」でしかなくなってゆくことで、いつでも着替えられるものになり、それは「就活」という局面においてはすでにそう役にも立たないものになっていた、ということだったのか。