「妬み」とアナーキー

 それはおそらく「エリートの妬み」ではなく、ある程度「豊か」になってそういう生活できるようになってきた当の世間一般その他おおぜい自体が、漠然とある種のうしろめたさ的な感覚と共に抱いていた部分がほったらかされたままでいた結果、のちのちいろいろ悪さし始めていったようなところがあったんだと思う。

 これもまた年来の持論のひとつだけれども、戦後に達成した「豊かさ」が果たしてどういう理由、どういう経緯で実現できたのか、というあたりの一般的な了解ができない/しないままで、だから「豊かさ」に根拠づけがうまくできない分、〈いま・ここ〉の現状に自信がなくて常にどこかうしろめたい、「こんなのウソだよな」的な不安が構造的にあったんでないか、という。「清貧」論なんてのがある時期、あれだけ売れたっていうのも、そういううしろめたさにクリティカルヒットしたわけで、それ以前の「モノよりココロ」的心性にしても同じこと。こんなにみるみるうちにぜいたくに(「豊かに」はその忖度&婉曲表現) なってもいいんだろうか、バチあたらんだろうか、的な。

 ああ、貧乏性と言えば貧乏性、近代100年足らずをやみくもに考えなしにとにかくやっつけちまえ、でやってきた結果、〈いま・ここ〉の現在の自分、この今生きている現実に対する確信や信頼の類がうまく持てないままだったわれらポンニチ、日本人というこのアホで健気で小心な民族よ、とここは柄にもなく出羽守テイストで敢えて。90年代のあの「歴史教科書問題」の頃から、こういう〈いま・ここ〉に至る「歴史」の不在がいきなりの失地回復運動として鬱憤晴らし的に、痙攣的に噴出してしまう習い性みたいなことは感じていたし、また実際そういう理解で間違っていないと今でも思う、昨今の「ネトウヨ」呼ばわりに至る草の根常民その他おおぜいレベルでの「ナショナリズム」めいたルサンチマンの表現の背景にわだかまっている何ものか、というのは。そしてそれは、「ナショナリズム」などという他人行儀から逃れられないカタカナ用語のよそよそしさでは到底理会することのできない、もっと根源的で本質的な〈いま・ここ〉のわれらポンニチの民族的心理を構成する重要な要素としてさらになお無視できないものになってきているし、今後おそらく今世紀半ばから後半にかけての文明史的間尺での課題にまでなってくるように感じている。

 自分のこの「豊かさ」や生活の安定ぶりそのものがどこか嘘っぽく、あてにならないものである、という感覚。敗戦後の喪失感や崩壊感覚などを実際に自分ごととして体験してきた世代でなくても、どうやら自分らのこのニッポン自体がそういうもの、あわただしくジタバタあくせく七転八倒した挙げ句、何かのきっかけでひとつ瘧が落ちたように茫然自失するしかないような事態に陥るものらしい、だってほれ、親もじいちゃんばあちゃんも、生きた時代は少しずつ異なれど、みんな似たような仕打ちを生きている間にそれぞれそれなりにされているみたいじゃないか、と。だから、自分以外の他の誰かがどこかでうまいことやっていい暮らしをするようになっていたとしても、それもまたたまたま今だけのこと。だから、「妬み」や「僻み」「嫉み」の類よりも、いやそれも間違いなくあるのだけれどもそれ以上に切実に、大丈夫かなそういうことで、またどこかで形勢逆転、世の中自体がひっくりかえってチャラになるような事態がきっと起こるに違いないのだから、という屈折した共感、大変ですなあご同輩、的な諦念までも含み込んだ淡く沈んだ連帯感みたいなものが底の底にたゆたっているように思うのだ。

♬カネにあかしたガラバさんの庭も/ひとつ間違や海の底 *1

 なぜだかは知らない。知らないが、みんな自分の外側に「正解」を手っ取り早く求めるようになっている。その分、いまどきの「ポリコレ」というのはある意味、そういう誰にもお手軽わかりやすく拾える「正解」(≒往々にして「正義」にまで横転する) として機能しているところがあるのかも知れない。だから、自分より、自分たちの水準よりもうっかり「豊か」になっている御仁を見ると、「そんなわけはない」「そんなことがずっと続いてゆくはずがない」といったある種の対現実認識、「そういうもの」としての自明の法則みたいなものがあるところまでゆくと必ず発動される。されて、「どこの馬の骨とも知れない、この自分や自分たちと同じような連中」が栄耀栄華、運否天賦の人生双六の結果、大当たりの目を出して得手に帆を上げるさまを見ることになっても、「人としてそれ、どうよ」とか「お天道さまに申し訳ない」とか、そういう感じのもの言いと感覚とに想定されていた、いつどこで誰に教えられたわけでもない漠然とした、でも当然そうだよね、といった確固とした「常識」(敢えて呼ぶなら) がぬっ、と姿をあらわしてくるものらしい。

 だからそれは、本来の「妬み」とか、そういうものではないのだと思う。「あんたかてアホやろ、うちかてアホや、ほなさいなら」*2 という本邦常民的、いやより正確に町人的と言うべきだろうか、いずれそういう種類の底知れぬニヒリズムをはらんだアナーキーの表現。問題は、そのことを当のわれらポンニチ同胞自身が、ああ、やはり未だにうまく自覚も自省もできていないままらしいということだろう。

*1:もちろん、かの熊本協同隊は宮崎兄弟が田原坂から後退する際、拾った三味線かき鳴らしながら半ば自暴自棄に高歌放吟したという唄の一節。「ガラバさん」はあのグラバー邸の主、武器商人にして政商トーマス・ブレイク・グラバーのこと。

*2:かつて、一世を風靡したこの中島タメゴローの、もうひとつの名セリフなのであった。www.youtube.com