藤原審爾、のことなど

 ちと必要あって藤原審爾のことをこのところ少しさわり始めとるんだけれども、いやほんまにこれ、かなりの売れっ子で仕事もしてきた御仁なのに、ほとんどちゃんと論じられたりされとらん書き手になっとるのは、いつものこととは言いながら、なんでなん? と。*1

 有馬頼義なんかもそうだけれども、高度成長期にたくさん仕事していた書き手で、それこそ映画やドラマその他の原作などにも好んで使われていたような御仁ほど、何か理由があったとしか思えんくらいエアポケットのように論じたり語られたりされとらん位置におさまっとるのは、ほんとに素朴に不思議で興味深い。

 これ、若い衆の言うとったラノベ界隈でもある時期以前の読みもの「おはなし」脈絡からきれいに切断されとる(としか思えん)ような語り/語られ方しかしとらん、という件ともどこかで通底しとる何かがあるんかな、とかいろいろと。まあ、大量消費を目がけた創作物 (「コンテンツ」化されてメディア横断的になったらなおのこと) は活字であれ映像であれ、文字/活字の間尺で「語る」「論じる」「批評する」の視野に入りにくいし、何より方法的にもまず反りが合わんような気はする。

 〈知〉の側からの視野がすでに〈いま・ここ〉の広がりから置いてかれて、ナチュラ視野狭窄でどんどん閉塞していっとるらしいこと。それ以上に中の人がたがそのことにどんどんナチュラルに(∩´-ω-)アーアーキコエナイになってきとるらしいこと。マジメで優秀で意識高い、その意味じゃ当代若い衆世代リソース的にゃ選良であるはずの人がたほど、そのへんどんどん閉塞や梗塞が進行しとるように見えるんだが。

 たとえば、浪花節を語ったり論じたりしたものが、一般のファンや消費者でなく「専門家」と目されている/いた人がたでさえも、ある時期までほとんどそれ自体が浪花節だったりした(雑な言い方だが)ことあたりと、ある意味通じとるような気もする。こういう言説なりもの言いなりに適切なデバッグをかけてゆくこと、の必要と、それを認識して方法的な足場を構築しようとすることは、正しく「読み」の可能性の間尺において人文系の本領に含まれてくるはず、ではある。

*1:これがらみであった。king-biscuit.hatenablog.com