「可視化されただけ」話法、のこと・メモ

*1
 「可視化されただけ」話法の件。何かいまどきな事象や現象について立ち止まって考えようとした時に、「それはこれまで見えなかったものが、単にweb環境を介して可視化されただけ」的な言い方で話に決着つけてしまうようなもの言い。

 web介したインターネット環境の普及浸透という事態が、これまで見えなかったものをうっかり見えるようにしてしまった、という説明はもちろんそれなりに説得力はあるのだけれども、このもの言いのポイントはそこではなく、可視化されただけ、のその「だけ」の部分なんだろう。つまり、事態は以前から「そんなもの」で存在してきていたのだけれども、これまではそれがうまく見えなかった「だけ」のこと、でも今はそれが見えるようになっていてその分、以前から「そんなもの」だったものも「新しいできごと」的に見てしまうようになっている、要はそれ「だけ」のことなんだからそんなに大騒ぎすることないよ、といったある種の上から目線、全てわかってる意識からすれば世はこともなし、的な「オトナの視点」というか何というか。

 そもそも、である。それは本当にこれまで不可視だったのか、そもそも昨今そんなに何でもかんでも「可視化」されているということ自体、果たして本当なのか、とか、あれこれいろいろと考えとくべき点はあるはずなのだ、本当ならば。たとえば、その「可視化」された、と思う/感じる意識自体に何かバイアスなり自明の前提なりがいろいろ設定されていたりするような気もするし、「情報化社会」とか「IT化」とか、いずれそれ系技術信奉のイデオロギー的表現として、とかそういう可能性も含めて。そしてそれはかつて「インターネットで民主化が一気に進む」的に瞳孔開きっぱになっていたような界隈とも、どこかなにげに地続きな印象もないではなく。

 人文社会系ならばこれ、例の「つくられた伝統」話法などと親和性ありそうなのが、直感的にわかると思う。*2 眼前の事実はあたかも「伝統」のように維持されてきたものに見えるけれども「実は」そうではなくて、ある時期以降に「発見」「誕生」したもので、という話法。あたりまえだと思っている事実がある時期からつくられてきた過程をすでに持っていた、という「発見」がとにかく手柄として受け取られるような環境において、こういうもの言いは当然、飛び道具的な切り札として使い回されるようになっている。

 これに対して、先の「可視化されただけ」話法を並べてみる。

 これまでずっとあり続けてきたものが「実は」たまたま最近になって新たに「発見」されるようになった「だけ」、というもの言い。見えているものがずっとこのままだったわけではなく途中から生まれたり発見されたりしたものだった、ということと、見えているものがずっとこのままだったのにそのことに気づかないままだった、ということの間。例によってまたしちめんどくさいことを言っているけれども、この両者、「実は」を介して提示されるのがそれ以前の前提を「ひっくり返した」ものであることにおいては基本、同じなわけで、ある事象なり何なりが継続的に以前から存在している、という認識と、それに対して「実は」そうじゃなくて、という「ひっくり返し」がポイントになっているという意味では、同じハコなのだろうな、と思う。

 連続してずっと連綿と続いている何らかの現実というのがあって、それを前提にして仕掛けられている「ひっくり返し」の手口。「ずっとあり続けている」ことと「最近になって現われてきた」こととの間に実は違いはなくて、どちらも世間一般その他おおぜいにとってのあたりまえの認識、半ば「常識」的に自明のものとなっているものの見方や考え方、ざっくり「俗説」や「常識」に対して、「実は」そうじゃない、という形で「ひっくり返し」を仕掛けてゆくのが基本線。だから、「ずっとあり続けている」ことと「最近になって現われてきた」こととの間の違いや切り分け、その間の本質的論理的な関係などについての留保や考慮の方向性はまずきれいに無視される。必要なのは、「実は」そうじゃない、という「ひっくり返し」なのであり、それが目的としてあらかじめ設定されているからそこから逆算して、便利に「使える」話法やもの言いが得手勝手に引っ張ってこられる。そういう意味で、自前の日本語環境で生成されてきた国産品よりも、見慣れぬ翻訳ものカタカナ表記の能書きやそれらにまぶされた「理論」などの方がより便利な、絶好のツールになる。葵の印籠ふりかざしながら、そういう「発見」を正当化し、拍手喝采してくれる大向こうの世間に対してアピールできればそれ以上、そこから先のことなど誰も考えない。「俗説」や「常識」の「あたりまえ」に対して「批判的」に見てゆこうとすることは〈知〉の基本的な構えであり、そのことさえ提示できればよし。そういう〈知〉のあり方を共有する共同体の自己確認の儀式として、つきあいの身振りとして。

 でも、世間ってのはどうやらそういう「俗説」や「常識」でできているみたいなんだよね。そういう「俗説」「常識」を粉砕したり論破したりあれこれやってやったぜ、的な愉快ってのは確かにあるしわかるけど、でもだからと言うてその「俗説」「常識」全部否定してなくそうとしたところで、世間の成り立ちからして「そういうもの」らしいから、そうそううまいことゆくわけもなく。なんというか、その「俗説」「常識」を否定すること自体があらかじめ目的化されとるような気がすることが昨今、なぜか少なくないし、それはそういう世間とは「違う」自分、距離を置いている独自な見方、ということの証明にしかとりあえずなりようもないらしく。*3

 日本語の壁って他の言語に比べてとりわけ自明性が高いというのか、ある意味「自然」として君臨している度合いが高かったりするのだろうか。言葉が単なる道具に「すぎない」というあたりの感覚がその分稀薄だったり、文脈依存度が高いとか言われるのもそういう意味では言葉の自明性、「自然」として規定してくる度合いと関連していたりして。別の角度からは、「自分」と言葉との距離がとりにくいというか、「単なる道具」としてのドライな感覚でつきあいにくいというか、それだけ「自分」を客体化もしにくいというか。ああ、もうめんどくさい。日本語を母語にしちまうともしかしたらそれだけで世界標準的にはかなり「めんどくさい」性格になったりするのかも、と思うことは確かにあったし、今もある。ムダに内面的になるというか、ものの見方や感じ方などが過剰に、生きてゆく上での有用性実用性の閾値をうっかり越えるくらいムダに敏感になるというか。根拠その他は全くようわからんけれども、単なるボンクラの素朴な実感として。

*1:例によってゆるゆるgdgdと。めんどくさくても少しずつことばにして対象化してやることで、自分の考えているらしいことがぼんやりとでもその輪郭を整えてきてくれるようになる、行きつ戻りつしながらでも。

*2:この話法はこのあたりが昨今、どうやら基本的な準拠枠として「経典」扱いになっているらしい。なんというかもう、ご苦労さんとしか言いようがない。読書会とか大マジメにやったりしているんだろうなぁ……

創られた伝統 (文化人類学叢書)

創られた伝統 (文化人類学叢書)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

民族とナショナリズム

民族とナショナリズム

*3:「●●の近代」的な表題やタイトルのつけ方、というのにも通じる件。