私がオーディオを始めたのは、まだオーディオ店が田舎町でも最低一つはある時代だったが、それでも客の年齢層は高く「爺さんばっかり」だった。
— 三一十四四二三 (@31104423) 2019年2月7日
若い人は二割に満たなかったのではないか?
(この先、この業界は不安だな)
と微かに思っていたが、まさか、今のような状況になるとは。
オーディオ店に
陣取った爺さん達は、何故かとても偉そうにしており、若い客が来ると
— 三一十四四二三 (@31104423) 2019年2月7日
「ジャズは聞くんか?誰が好きなんや?」
などと語りかけ
「いや、僕はジャズは聞きません」
と正直に答えると
「何〜ジャズ聞かんのなら、こんな機械買わんでもええやんか!」
と怒ったりするのだ。
ジャズ爺いは、その店に既に
大金を落としているから、店員も そんな営業妨害発言を咎めない。せいぜい苦笑いだ。
— 三一十四四二三 (@31104423) 2019年2月7日
爺さんは若い客の買物にも口を挟んでくる。
「そんなゴミやめとけ!雑誌で見たんか?雑誌は嘘ばっかりやで。タンノイにしとけ!」
(この爺さん早く帰ればいいのにな…)
と思うが、根が生えたように居座っている。
そして、いつ来ても、その爺さん、あるいは、ほとんど同じキャラクターの別の爺さんがいるのだ。
— 三一十四四二三 (@31104423) 2019年2月7日
店は、その爺さん達だけで潤っているから、若い客の相手はしない。
若い客は金を持ってないから、高いものを買ってくれないし。
そのうち、爺さんが減ってくる。
皆かなりの高齢だから、入院したり
死んだりし始めたのだ。
— 三一十四四二三 (@31104423) 2019年2月7日
爺さんが消えても、若い客は増えない。
あんな鬱陶しい店には行きたくない。
将来、あんな爺さんになりたくない。
だから皆オーディオなんかやめてしまったのだ。
爺さんだけを大事にしたからオーディオは滅びつつある。
オーディオ=爺さんの趣味 のイメージだけを残して。
オーディオとレコード、そこにジャズがからんでこういう「場」が平然と、それも田舎町と自身言うような「地方」の環境に保たれている事情。これはカメラあたりでも同じようなものだろう。いわゆる「趣味」と呼ばれてきたような領域の、それが必然的に宿してきたような「場」と「関係」そのものに否応なくまつわってきている世代と時代の変数の無惨。
本来なら、ふだん使いの世間一般、さまざまな稼業とそのしがらみに応じてつきあい方やものの言い方まであらかじめある程度決まってこざるを得ず、また決まってきたそれらを敢えて乗り越えることが必要になることもまずないまま。ただ、「趣味」ならばそれを一気にフラットに、ひとまずなったことにする、できるというのが、まずもっての妙味であり楽しみでもあったはずではあり。
「趣味」というもの言いの来歴はひとまず措いておこう。ここではそれが「私」でありプライベートであるようにだけ受け取られるようになってきた、そういう経緯もまたすでに横たわっているらしいことの方に問題意識を合焦しておきたい。「趣味」はそのように「私」の領分に収納されるようなものだったのか。「公」と「私」という仕切りの図式に素直にあらかじめ従うようなものだったのか。「趣味」という下地の上に成り立つ「公」と「私」というのもまた、同時にあり得たりはしなかったのか。
ここで言及されているような「爺さん」たちにとって、そのオーディオ「趣味」なりジャズ「趣味」――どうやらそれは不可分なものになっているらしいが、いずれそれらの「趣味」はそれぞれの爺さんたちの日常生活での立ち位置、社会的な地位や仕事のありようなどと、ひとまず関係ないところに存在しているはずだ。そこではまたそこでなりの力関係や序列などができるのもまたあたりまえだとしても、そしてそれが「もうひとつの公」になり得ることもあっても、普通の社会的な関係とは別の現実を構築してゆく関係であることに変わりはない。そして、それが「自由」であり、いずれそのようなかけがえのないものを担保してくれる場所であることに自覚的であることもまた、全ての者にとってではないにせよある程度の比率ではおそらく。
現在 使用していないが、真空管アンプの完動品が一つ、物置に転がっている。と知人に話したら「シンク〜カン!」と目を輝かせ「売ってくれ!売ってくれ!」とせがむので、格安で譲った。ちょうど真空管アンプブームが一番盛り上がっていた頃だ。
最近、久しぶりにその知人宅を訪ねたら、その真空管アンプが、まだ使われていた。しかし、その音質は褒めたものではなく、とてもノイジーで音域も極めて狭く、昔のラジカセみたいな音だった。真空管の悪い面が全部出ている。知人は結構 良いスピーカーを使っているので、これでは宝の持ち腐れだ。
「自分で売っておいて、こんなことは言いたくないがこのアンプは良くないのではないか?」と、つい本音を漏らしてしまった。しかし知人はこれで満足している。と言い「真空管ならではの暖かい音だ。人間的だ。味わい深い。心が休まる。癒される」などと三文雑誌の丸写しのような御託を並べ始めたので、「そうね。そうね。よく聞いたらその通りね」と嘘をついて退散した。本人が良いと思っているんだから、それでいいのだ。私は野暮なことをしてしまったのだ。
私のオーディオも来客に「君という人間と同じ。スケールが小さく、迫力もない」などと言われてることがある。それは、その人にとっては正解で、その人なりの親切心なのかもしれない。だが、私は自分の音に満足しているのだから、何を言われても余計なお世話なのだ。人の音に口出ししたくなるのも、人の意見を反故にするのも、オーディオの世界の常であり、つまり、これをもって正しい人間関係は築けないのである。結局は、独りぼっちの寂しい趣味なのだ。
*1:「趣味」をめぐる「場」の滅び方の、ある定型的な道筋について。