あるオーディオ店の滅び方・メモ

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 オーディオとレコード、そこにジャズがからんでこういう「場」が平然と、それも田舎町と自身言うような「地方」の環境に保たれている事情。これはカメラあたりでも同じようなものだろう。いわゆる「趣味」と呼ばれてきたような領域の、それが必然的に宿してきたような「場」と「関係」そのものに否応なくまつわってきている世代と時代の変数の無惨。

 本来なら、ふだん使いの世間一般、さまざまな稼業とそのしがらみに応じてつきあい方やものの言い方まであらかじめある程度決まってこざるを得ず、また決まってきたそれらを敢えて乗り越えることが必要になることもまずないまま。ただ、「趣味」ならばそれを一気にフラットに、ひとまずなったことにする、できるというのが、まずもっての妙味であり楽しみでもあったはずではあり。

 「趣味」というもの言いの来歴はひとまず措いておこう。ここではそれが「私」でありプライベートであるようにだけ受け取られるようになってきた、そういう経緯もまたすでに横たわっているらしいことの方に問題意識を合焦しておきたい。「趣味」はそのように「私」の領分に収納されるようなものだったのか。「公」と「私」という仕切りの図式に素直にあらかじめ従うようなものだったのか。「趣味」という下地の上に成り立つ「公」と「私」というのもまた、同時にあり得たりはしなかったのか。

 ここで言及されているような「爺さん」たちにとって、そのオーディオ「趣味」なりジャズ「趣味」――どうやらそれは不可分なものになっているらしいが、いずれそれらの「趣味」はそれぞれの爺さんたちの日常生活での立ち位置、社会的な地位や仕事のありようなどと、ひとまず関係ないところに存在しているはずだ。そこではまたそこでなりの力関係や序列などができるのもまたあたりまえだとしても、そしてそれが「もうひとつの公」になり得ることもあっても、普通の社会的な関係とは別の現実を構築してゆく関係であることに変わりはない。そして、それが「自由」であり、いずれそのようなかけがえのないものを担保してくれる場所であることに自覚的であることもまた、全ての者にとってではないにせよある程度の比率ではおそらく。

 現在 使用していないが、真空管アンプの完動品が一つ、物置に転がっている。と知人に話したら「シンク〜カン!」と目を輝かせ「売ってくれ!売ってくれ!」とせがむので、格安で譲った。ちょうど真空管アンプブームが一番盛り上がっていた頃だ。


 最近、久しぶりにその知人宅を訪ねたら、その真空管アンプが、まだ使われていた。しかし、その音質は褒めたものではなく、とてもノイジーで音域も極めて狭く、昔のラジカセみたいな音だった。真空管の悪い面が全部出ている。知人は結構 良いスピーカーを使っているので、これでは宝の持ち腐れだ。


「自分で売っておいて、こんなことは言いたくないがこのアンプは良くないのではないか?」と、つい本音を漏らしてしまった。しかし知人はこれで満足している。と言い「真空管ならではの暖かい音だ。人間的だ。味わい深い。心が休まる。癒される」などと三文雑誌の丸写しのような御託を並べ始めたので、「そうね。そうね。よく聞いたらその通りね」と嘘をついて退散した。本人が良いと思っているんだから、それでいいのだ。私は野暮なことをしてしまったのだ。


 私のオーディオも来客に「君という人間と同じ。スケールが小さく、迫力もない」などと言われてることがある。それは、その人にとっては正解で、その人なりの親切心なのかもしれない。だが、私は自分の音に満足しているのだから、何を言われても余計なお世話なのだ。人の音に口出ししたくなるのも、人の意見を反故にするのも、オーディオの世界の常であり、つまり、これをもって正しい人間関係は築けないのである。結局は、独りぼっちの寂しい趣味なのだ。

*1:「趣味」をめぐる「場」の滅び方の、ある定型的な道筋について。