「個別具体」から、の目算・雑感

 自分の抱え込んだ雑書の山にそんな大層な意義があるとは到底思わんが、ただ本ってのは集積されとって初めて何か意味を持ち、何らかの有用性に向かって開かれるものであることもまた確かなわけで。ささやかな私立書庫、自分以外に年にひとりでもふたりでも「役に立つ」と思ってもらえればそれでいいような、そんな雑書の集積を安定的に運用できる目算を立てられるものなら立てられるように考えてみにゃならんのかもなあ、と。

 少しはマシな就職をするために、というそれ以上のことは何も考えずに大学へ流し込まれてくるいまどき若い衆世代のための「高等教育」とは何か。高校までの課程でロクに手をかけられてきていない、それはまず概ね共通している。それを4年間でどこまでリカバリーできるのか。ひとつ間違いないとこれまでの経験上思えるのは、できる限り少人数のマンツーマンに近い対応が可能な環境でないことには難しいだろう、ということ。

 もちろんそのためにゃ対応する側の人数も必要だし、それ以前にまずその資質や条件についても最低限の水準をクリアせにゃならず、何にせよ都市部中規模以上の大学ではとてもじゃないが実践できないこともまた論を俟たないわけで。日常から「つきあう」という関係の維持の仕方が失われてきつつあるのに、それを大学でどれだけ担保できるかという難題でもあるわけで。ましてやそんな呑気なことやっとったら生存でけんエリジウム環境の本邦首都圏その他大方の「マチ」環境だとなおのこと、お題目にもならぬ空中楼閣お花畑必定なわけで。

 とは言え、かろうじて少しはまともな氷河期ロスジェネ界隈世代の人文社会系が出てきたかな……と感じることはある。弊社若い衆でもスケールや水準その他はまるで違うにせよ、同様の開かれた素朴な関心や問題意識をぽろっと披瀝するようなのがちらほら出てきてはいる感。ただこれは単に物理的な世代どうこうでなく、ある種の同時代情報環境との相関で必然的に出てくる視点というか問題意識のありようなのかも知れん、とは思う。そして問題はいつもそこから先、そういうまっとうで健康な問題意識や問いかけを、さてどのように〈いま・ここ〉に役に立つように、言い換えれば世間一般その他おおぜいの現実認識の底上げに益するようなアウトプットの仕方まで含めて目算を立てられるかどうか、そしてその目算を実践につなげてゆけるかどうか、ということになってくる。

 個別具体への復員、「経済」と「歴史」のマトリクスの「近代」(的言語空間)への再投企、およびそれを可能にするための下ごしらえとしての「(最も良い意味での)思想史」的枠組みの再起動再設定の必要。「能力」とか「才能」とか「学力」とか、そういうこれまで自明になっていた(と思われてきた)ものさしはどうやらそんなに重要な指標ではなくなってきている気配もある。どれだけ素朴に誠実に「復員」できるのか、まずはそこに「自由」と「教養」の復権の可能性が見出せるのかも知れん、という希望。

 ことば、を見出すこと、既存のエリジウム的速度や間尺その他に規定されたもの言いではなく、素朴で誠実に個別具体の現実を自分の目線から再構築してゆくための道具としての。そのための手助けをどれだけ個別にしてゆけるか、という見極め方と共に。
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胃袋の近代―食と人びとの日常史―

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お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史

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*1:たとえば、こんな出版物。もちろん個々の内容についてはそれなりの違和感や疑義その他はいくらでもあるけれども、基本的にこのような「衣食住」の個別具体「から」発する初発の問いをかろうじて手放さずに維持継続しているらしいこと、それだけでもまずいまどきの日本語環境でのそれら人文社会系〈知〉の煮崩れ具合からするとまだ「希望」として留保できるレベルではあり。